東京:洗足池の源流探し
お昼ごろから見始めて、2時間くらいかけて勝海舟記念館をまわりました。
遅めのランチを食べて、洗足池からすぐのところにある、AOI COFFEEさんでちょっと一息。
さて? とりあえず、洗足池を一周する? と池に戻ってきました。
石…入口のところにある石碑です。
石の文字は課題ですねぇ…。
まーようは、各村々が協力し合って中原街道を整備しました記念碑だと思われます(適当)裏に、村長さんたちの名前がたくさん書いてありました。
前に出したかな? 洗足池公園 看板。
(私が写りこんでるのはご愛嬌)
清水窪湧水などを主な水源とし…って書いてありますね。
今回はこの清水窪湧水を探しに行くことになります。
コトの発端は、洗足池を歩いている途中に出てきた、この水路。
このあたりです。
黄色い印のところから撮った写真。
「どこまで続いてるんだろうね?」
「えっ? 行ってみる?」
というわけで、なんの下調べもなしにとりあえず水路を遡りますww
地図の矢印のくらいのところで、水の流れは道路の下へ。
(ん〜?? ここまでかなぁ?)
と思ったのもつかの間、「清水窪湧水から流れ出ています(←1.4km)」的な看板が。
1.4kmが近いのか遠いのかは人によりますが、まぁ20分くらいでつくよね?
一瞬、自転車を取りに行こうかと思いましたが、まぁ歩くか〜ってわけで、そのまま源流方面へ。
googlemapにて最短ルートを辿ったら、途中そこそこな坂をのぼり
「これは川の流れじゃないよね?」
「絶対あっちの下ってるところがルートだよ」
なんて、大田区の閑静な住宅街で盛り上がる謎な人たち…。地味に楽しい。
最近、高低差萌えがわかる気がしてきました。
ここにも清水窪の文字。
そんなこんなしながら高低差にキャッキャしてたら、あっという間に清水窪湧水に到着。
東京名湧き水57選らしいです。
ぁ、57選のうちの6番目らしいです。(57…って…半端な…。57/100とかかと思ったよ…)
水子地蔵さんですね。きれい。
このお地蔵さまは人の世のあらゆる苦しみを代って受けて下さる尊い仏さまです。
とくに流産中絶などにより迷える水子の霊が完全成仏出来ますよう、無事安産で来るよう、幼い子が健全に育つよう、学業がよく進むよう、或は心身の病苦で困っている人、家庭不和を悩む人など、その他どんな事でもこのお地蔵さまに一心にお願いすると、必ず打開の道を得られます。
毎月二十六日 午後一時よりご先祖様、ならびに水子供養を行っていますので、希望者は御申しでください。
俗称 清水窪辨財天の由来
この辨財天社は江戸時代初期の頃、この地の所有者(北千束一の一四の八番地在住)岸田家先祖がこの地にこもる霊気を感じて祀られたものである。
当時はうっ蒼とした杉の森で昼でも天日を見ることができないくらい茂っていたそうだ。
この地に湧き出す清水は今日でもどんな干天になっても絶えることがない。
その昔は白蛇の姿を見たこともあるという。
霊気は物すごいまでに強く邪心を捨てて一心に念願すると不思議に叶えられるので遠近各地からの参拝者が絶えない。
現在は神格が昇って左の如く祀られている。
清水窪辨財天昇格改称
天八大龍王神
旧大森区史によると、この地は大古大森海岸の入り江の奥にあたり、更に低地にあたる洗足池や小池などは当時の海の名残であると記されている。
庵主
清水窪湧水。
池の長さ約20m。池の小島の小さな祠には弁財天がまつられている。
この湧水は武蔵野台地の端、千束の谷がつきるところにあり、旧村落の頃、この付近一帯を清水窪と呼んだのも、この地形のためである。
ここから湧き出る水は洗足池の源流となりかつて千束の谷が田畑であった頃、用水として水田を灌漑していた。
本区のみならず東京都内に残された数少ない湧水池として貴重である。
************
ふむ、れんちゃんで看板3つ読みましたね。
「大古大森海岸の入り江の奥にあたり、更に低地にあたる洗足池や小池などは当時の海の名残である」
「武蔵野台地の端、千束の谷がつきるところ」
地形に関することがいくつか出てきましたね。
ふーん?? と思って、洗足池周辺を5mメッシュと重ねてみました。
左隣の川は、呑川ですね。
清水窪湧水は清水窪小学校の少し北に行ったところだったので、ほんとに窪地だったことが良くわかります。
大岡山が、岡っぽく山っぽく、小高いところにあるのも見てとれますね。
重ねないバージョン
めっちゃ窪ってるじゃんっっっ⁽⁽( ˊᵕˋ )⁾⁾
大森海岸?大森村との位置関係。
(なるほど? 江戸の大森村あたりからは、ちょっと距離がありそうですね。古代大森海岸はどんな感じだったのかな~??)
こっから先、看板シリーズ続きます。
ちょっと看板多すぎて、いまいち理解に追いつかないので、わかる方、私に解説してください⁽⁽( ˊᵕˋ )⁾⁾
奥からいきます!
三社大口真大神
・三峯大神 伊奘諾・伊弉冉尊
・宝登大神 神日本磐余彦尊
・御嶽大神 国常立尊
この御神名は埼玉県の奥秩父に祀られている三社を総称していう。
これらの神々は国土安泰の為に尽された神である。
常に信仰すれば堅義性が培われ、偏狭心が矯正され、何事にも責任を持ち多くの人々と協調が出来るようになり、近隣や友人から喜ばれる人となる。
そして特に盗難、火難、事故災難からその一身一家を守られるようになる。
三徳大明神
この御神名はその字が示す如く三つの徳を持つという意味である。
即ち天徳・地徳・人徳を総称したものでありこれを人の精神に表せば、智・仁・勇となる。
智は利害を超え天地公正にして大衆に正しき道を示し、仁は平等なる恵み、勇は努力精進を表わす。
熱心に信仰すればこの三徳が兼備され常に豪放磊落(ごうほうらいらく)、物事にこだわらず天地より信頼協力が得られ指導者としてすばらしい力を発揮することができる。
天圀蔵五柱五成大神
・天日端穂造美尊 すべてのものを豊に収穫する神
・天豊穀食類媛命 穀類を豊熟させる神
・天豊宇気比媛命 気候風土を順調ならしめる神
・天太田地土命 田畑を守る神
・天大市比売尊 売買市場を繁盛させる神
五柱五成とは五柱の神によって五つの道を成就させるという意味である。
稲荷神として最高権威を持つ神であり総ての稲荷神を統合融和せしめ、社会生活を完全に守護するものです。
常に信仰すれば自然と人の心や物事を透察する感知力が強くなり、事業上にすばらしい働きが出来るようになります。
天五色大天空神
古来天狗神ともいわれ、不思議な神通力を具えその名の如く天空を自由に飛翔し人心を救済、能く諸願を成就する。
常に信仰すれば豪貴不屈の精神が養成され、他をも融和し人心を統合してあらゆる事業面に、又、新規開拓の分野にすばらしき御加護を下さる。
なお、その威神力は交通安全の守護神として特に航空関係の安全にすばらしき働きをして下さる。
馬頭観世音
畜生道の教主としての観世音であり、その救済力はあたかも転輪聖王の宝馬が四方を馳駆(ちく)一切の魔性煩悩を摧伏することを本誓とする。
馬字を頭にするのは、正馬が持つ天性を菩薩行に表現し、生活上起しやすい色欲財欲による悩み、又、親子夫婦嫁姑間などにおける反目斗争による苦しみからの救済。
なお疾風迅雷の如き速さとその活動従順と忠実性は能く、交通安全の守護神としてすばらしい働きをして下さる。
肩・足・腰の痛みなどに に不思議な加護あり。
天大国主之命
この神は地神の祖として、出雲の国にその本社が祀られており、出雲大社として有名である。御神德は福德慈悲を現し、熱心に信仰すれば自然と感謝融和の心が涌き、家庭を円満に導いて下さる。
又、特に縁結びの神として不思議な霊験を顕わす。
多分これで網羅した?かな??
なんか、一周するだけで、人生のほぼほぼのお願いごとができそうなくらい、いろんな神様が集まってますね。
肝心の湧き水は、これかなぁ??
チョロチョロと絶えず水が流れていました。
洗足池の近くは、そこそこ水量があったので、今なお、現役の湧水であることがわかります。
で、ワイワイしながら遡ってきた源流は、桜のプロムナードと名前がついてるらしいです。暗渠ですね。
東京湾までそそいでいるのだとか!
洗足流れを通り、馬込桜並木(旧内川)から、大森ふるさとの浜辺公園へつながっているみたいですね。
9kmだって。歩けるね?w 2時間くらいかな。
帰り道は、そんな桜のプロムナードを辿って洗足池まで帰ってきます。
帰り道も、
「もうこの道の雰囲気は、絶対暗渠ですね」
「(4m道路の)ここが暗渠で、ここからむこうは道路を作るために削ったところだよね。」
「(小さな十字路で)ほら、左右両方とものぼってるよね?」
とか、また住宅街で盛り上がるww
やー、楽しいな(笑)
看板ばかりじゃなくて、もっと道の雰囲気の写真をとっておかないとね。(いつも反省する)
洗足池に帰ってきたときにはすっかり夕暮れ。夕焼けを見ながらしばらく池のほとりで休みます。
ご一緒した方とは、洗足池で別れて、私は国分寺崖線の上をフラフラと自転車で走りながら帰宅。
富士山は雲に隠れちゃったけど、キレイに焼けましたね。
ちなみに、これが国分寺崖線。
この国分寺崖線を渡るようにジグザグにルートを引くと、ご近所だけでイイ坂練になるんじゃないかと思ってるのは内緒♡
東京:勝海舟記念館(洗足池)
2020年10月25日(日)晴れ 無風
ぽたっと走って、洗足池へ行ってきました。
目的は、勝海舟記念館。
この時に空振りした勝海舟記念館へリベンジですね。
半年たっちゃったね。
おぉw 念願♪(内側の看板)
実は、勝海舟記念館オープンの日にも洗足池に来てるんです。
2019年9月7日でした。全くの偶然だったんですけどね。
この時は整理券を配ってた?かな?だったので、やめたのですが。
なので、三度目の正直!
立派な建物が青空に映えますね。
10月17日から後期展示になったばかり。
twitter公式アカウントのコピペですが、
**********
大田区立勝海舟記念館 (@katsu_info) | Twitter
本日から後期展示として勝海舟書状案が展示されています。前期展示『痩我慢之説』草稿を送ってきた福沢諭吉への返書の草稿です。「 行蔵者我ニ存す、毀誉者他人之主張」、ミュージアムグッズの名言鉛筆にもなっています。
*********
だそうで、えーっと…みた。諭吉さんのお手紙見たよ。右奥にあったやつw
ここが変更だったみたいですね
勝海舟氏と2ショットw (髪型お揃いw)
勝海舟別邸ですね。
赤坂にお家があったので、洗足池は別荘だったのです。
中原街道も今の半分の幅しかなく(ちなみに上り車線側)、本当に今の大森第六中学校のど真ん中ですね。
沼部方面から来ると、池をこえて、石井さんち先を左に曲がるかんじ?w
外壁です、外壁。建物の中に外壁があります。
基壇部と上段部は、細かく砕いた石を混ぜたモルタルを塗り、完全に硬化する前に水洗いして、表面に石粒を浮きだたらせる仕上げる「人造石洗出し仕上げ」を、中段部は、白セメントに骨材を混入して塗り上げ、表面をブラシなどで掻き落としザックリと仕上げる「リシン掻き落とし仕上げ」を施しているそうで、3層構造なんですね。
1階の展示はお写真とれないので、
あとは、タイルくらいしか素材はないですw
なかなかカワイイタイルが、階段や床に貼られていました。
2階へ♪
階段上ると、どーんと勝さんが出迎えてくれます。
今をトキメク「ハンコ」がたくさん飾られていました。こうやって見ると印章も良いものですね。
かわいくてじっくり眺めちゃいました。
千束軒のミニチュアですね。
戦災に見舞われ消失したそうですが、当時はこんな様子だったよう。
(ほんとは、モニターは映しちゃいけないんだけど、ビデオが終わって暗転しているタイミングで、講堂全体の様子が撮りたくてパチリ…大丈夫かな…?)
********
清明文庫は、海舟没後、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収集・閲覧、講義の開催等を目的として、財団法人清明会が昭和8年に開館しました。平成12年に国登録有形文化財に登録され、平成24年に大田区の所有となりました。その後、整備を進めるなか旧清明文庫を増築し、令和元年9月7日、勝海舟記念館として開館しました。
外観正面中央部のネオゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、中にはアールデコ調の造作が施されるなど、西洋の建築技法を取り入れたモダンな建造物です。
********
清明文庫の創設は、東洋思想や仏教思想を普及させる団体として知られていた財団法人清明会(1920年設立)が1923年10月に、勝海舟の没後使われなくなっていた洗足軒を、清明会の講堂として譲り受けたことに始まる。
翌1924年には清明会が勝家から別邸の隣の土地の寄贈を受け、「勝海舟の遺蹟保存及び国民精神涵養のための図書を蒐集し、公衆の閲覧に供えて社会に貢献する」目的として、清明文庫が設立されるに至った。そして1928年には、講堂兼図書館である建物が完成する。1933年から活動を始めたが、清明会は設立者の体調不良などで、わずか2年後の1935年に活動を終えている。戦後の1954年、建物は学習研究社のものになり、「鳳凰閣」という名前になった。2012年には大田区の所有となり、勝海舟の業績を顕彰する記念館整備事業が行われ、2019年9月7日にオープンした。
**********
いまは、鳳凰閣というのですね。
この講堂でたくさんの講演会が行われたようです。
現在は、大型モニターに以下のようなVTRが流れています。
とりあえず、全部見ました。
ところどころ記憶が飛んでいる気もしなくもない(?)ww
鳳凰閣ミニチュア模型ですね。
当時はこんな雰囲気だったのですね。
お土産売り場で、私的ヒット商品はこれです。
「無血絆創膏」
速攻で血が止まりそうなネーミング(笑)
このあとノープラン過ぎてランチ食べてから洗足池をお散歩するのですが、洗足池の源流を探そうというコトになり、源流探しへ。
↓ それはまた次のおはなし ↓
ぁ、勝さん何したか触れなかったのですが、勝海舟については、あちこちで好きな人がめっちゃ詳しく書いてるから、あえてここで触れなくてもいいよね…?
ってわけで、勝海舟記念館でしたっ!
勝海舟記念館から中原街道まで行く道路に、タイルがあるとのことで探しながら帰ります♪ 10枚ちゃんと見つけられました!
そそ、これね。
お天気が良いと、前の道路から富士山が見えるかもですよ。(建物の2階から見えるかなー?とおもったのですが、屋上に上がらないと見えないとのことでした。)
神奈川:うどんの南哲へ
2020年10月18日(日) 晴れ 西風ちょっと
前回、9月21日におでかけしたみたいなので、約1ヵ月ぶりですね。
毎週末、お天気もあまり良くなかったかな?
お買い物の時のウェアでGO!
STEMデザインさんのホップ柄ですっ!
この時のキャップとお揃いですね。
髪伸びたな~(笑)
スカートは、なんだか昔に買ったランのスカート。ニューバランスかな?
色が合いましたね♪
一応、気が向くとランとかもするんです。
レースに出たのは1回だけで、土砂降りのハーフで2時間切れたかな~?くらいでした。
ビブはラファの薄めの裏起毛。
キツメなのでロングには向かないビブなのですが、100kmくらいなら問題なく走れるので、これで♪
パッドがないタイプなので、中にジテツウで使っている短めのレーパン履いてます。
家出た時点ではまだどこに行くか決まってなかったのですが、まぁどこでもいいかと(笑)
家のそばで、最近よくご一緒していただいている方と落ち合って、南哲さんに行く話に♪
おぉ、久しぶりの南哲さん!
去年の8月ぶりでした~1年以上たったのか。
日が経つのがはやい‥‥⁽⁽( ˊᵕˋ )⁾⁾
タマサイから尾根幹を通ります。
私は尾根幹は何度か通っていますが、ご一緒した方は、自転車では初めてだというので、まぁゆっくりね。
ここ走ってる人みんな速いからねw
恒例、ヤノロー。矢野口ローソンって正式名称なのかと思ってたら、全然違って…ww
正式名称は、ローソン 稲城鶴川街道店 でしたw
紅葉がとてもきれいですが、基本的に止まらないので撮影はしませんでした。
見た景色に合った綺麗な写真ひっぱってこれないかな?と思って検索していたら、高千穂先生のノートにイメージ通りの写真がありました。
高千穂先生もDKYですので、お目にかかったことあります。
(せんせー写真おかりしますー*ᴗ ᴗ)⁾⁾ )
尾根幹は17kmくらいでしたっけ?
楽しく秋の風を感じながら走れました。
もう楽しくて、終始にやにや♡
尾根幹を抜けると、すぐ南哲さんです。
お昼時でしたので、少し並んでから店内に入ります。
DKYジャージで来ると、ちょっとサービスがあったりします♪
DKYと書いて、「デカイ」と読みます。
多摩を中心とするチームで、とりあえず緩いです。縛りはなんもないです。マナー良く走るくらいかな?
私みたいな、ぽたぽた一般ローディーもいれば、表彰台にガンガン登っちゃう方とか、目を疑うようなバイクでエベレスティングしちゃうお兄さんとか、キャノンボールしちゃう方とか、モデルのお姉さんとか、いろんな人がいます。
おうどんの前に、本日の糧 300円
赤いお皿に1回だけ好きなだけ盛れます。
おうどんがきました。
奥は肉汁うどん(並)と、かき揚げです
手前は、ゆず香る肉うどん(並)
かきあげ! 200円 DKYですw
本家のHPにもDKYって書かれてます(笑)
2人で半分コしたので、ちょっと食べるのに苦労しましたw
ウェアは、お買い物の時に、上野Y'sでみつけた、ステムさんのホップジャージなのですが、店舗にはこれ一着しかなくて。
「まぁとりあえず、決まりね?」
みたいな事を言われたので、
「普通ウェアはお揃いでしょ? みんなお揃いで走ってるし?」
※イメージ
と、謎理論を持ち出し…?
(チームとか入ったことない方からしたら、お揃いで走るとかいう、その感覚は意味わからんですよね。)
ホップジャージの色違い(黒)を、その場でポチっ!
もう、サイズ感?とか解らなかったのですが、エアロジャージではないし大丈夫だろう? と。
結果、お揃いのジャージをお互いでプレゼントしあう形となって、満足♡
(ぁ、自己満足デス。ありがとう。)
8月に買ったジャージだったので、半袖で走れる間に着られて良かったwwww
ピアスはいつもの、ワッニ(かわいい)
もう10年くらいつけてるかな。
南哲さんでおなかいっぱいになって、ふぇぇ…って言いながら尾根幹復路をはしり、とりあえず、クロスコーヒーさんでデザート♡
美味しゅうございました。
ルートはまぁお近くの方は見なくてもわかると思いますが、こんな感じでした。
65km.
次はどこに行こうかな(⁎˃ᴗ˂⁎)?
東京:神戸岩(檜原村)
2020年9月21日(月) 晴れ 北西風ちょっと
久々にジテツウ以外でお外を乗ります。
なんか前回もそんなこと言ったと思ったのですが、8月9日でした。
この時は50kmくらいしか走ってないので(暑かったしー!)カウントしていいのか謎ですが、その前は、五日市駅パフェでした。
これが6月でしたので、4カ月で3回目のライドとなります。
ご一緒してくださる方は、いつもの方なのですが、12年前に神戸岩に行ったことがあるらしく、その時の話をしていただいたので、
「神戸岩に行ってみたいです!」
と、おねだりして出発♪
久しぶりのデローザさん。長らく(半年?)お外に出してあげられなくてごめんね~…。
前に五日市に行ったとき立ち寄った「多摩自慢」でランチにしました。
みんな昼間からビール飲んでていいな〜♡
唐揚げ、おむすび(チョイスできる)、お漬物、お味噌汁。いい感じ。
美味しゅうございました♪
やっとお披露目!
前回クロスコーヒーの時に買いに行ったウェア。ムリ言っておそろいな雰囲気にしてもらいました(よく見ると違うんだけど)
チームジャージって雰囲気ではないので、ルコック。
ラファやアソスよりリーズナブルですし、カペルやパンダ二ほど甘くなく、デザインの色合いも好きです(*´˘`)♡
顔入り…もある(一応)ピアスは相変わらずのワッニ!
スカートはカペルのスカート(限定モデルなんだよ。古いけど。)
このご時世、ホリゾンタルが2台並ぶの珍しいね~。
12時頃に出て、渋滞にはまったり、ランチしたりしながら五日市駅についたのが15時。
雨はふらなさそうですが、こっから登るの?w と思っていたら、登り始めるので…
ん。(ついてきます)
「吊橋、行ったことある?」
といわれ、
え?吊橋?なにそれ??
五日市駅出て4kmくらいかな?右手側の川に吊橋がかかっているのが見えます。
ちょっとお散歩♪
みんな楽しそうに遊んでました♪
秋川渓谷を出発して、神戸岩方面へ向かいます。
都民の森に行く、檜原村役場先のT字路を右折で、神戸岩分岐を更に右折です。
むかーし、風張林道に行ったときに通ったかな?
ということは、私は時坂を登りきったことがないのか( '-' )!
都民も長らく表から登ったことなくて、1年前くらいに初めて表から登りきったな…。
ちなみに富士山は、アザミやスカイラインは何度か登ってますが、スバルラインはヴァージンです。
いかに周りのお友達がおかしいかが伺えます…(感謝)
でも登り嫌いなんですよ(信じて!)
もうちょーい!
周りのキャンプ場からのバーベキューの香りが食欲をそそります(笑)
お肉食べたい(*ˊᗜˋ*)w𐤔
神戸岩到着です♪
頑張りましたっ!(はなまる)
水浴び〜私はウィンブレ持ってなかったので、濡れるのは控えます。
ジュラ紀…?ww
学術的にも貴重なんですって。
神戸の神は、大獄神社のことなのですね。
道の先にあるトンネルを少し見学。
手前側はコンクリで固められていますが、奥は手掘りのまま岩がゴツゴツしてました。
入っていった親子連れを良いタイミングで撮影したら、ひょえ〜〜(*꒪꒫꒪)
絶対なんかいるんだからっっ!!
明るいうちに山から脱出しました。
夕暮れがキレイ♪
通りすがり、角に煌々と明かりがついている店舗が。
ん?なんか見たことある看板?
と思ったらしまちゃんのお店じゃないですか!(お友達。がしかし、飲み会でしかあったことない(笑))
わーい!
と、サイクルショップシマザキさんにて記念撮影。突然だったけど、ありがとうございました!
国分寺駅のそばに行きつけの中華屋さんがあるので、そこで夕飯をかるくとります。
タイガー亭です。
もっているチームジャージにもロゴが入っています^^
全体的にお料理は辛めですが、美味しいですよ!
餃子は、普通の餃子とパクチー餃子を頼みました。
夏限定のトマト冷麺をいただきました。
噂の坦々カレーも食べて見たかったのですが、来年かな♪
なんと2食もちゃんと座ってご飯を食べるライドなんて、夢のよう♡
甘やかされてます(笑)
このあと、カンパチに入ったところで「お気をつけて、バイバイ!」となりました。
帰り道にサイコンが切れてしまったので、寄り道のログはないのですが、行きも帰りもほぼ真っすぐ東京都を突っ切る形で走っているので、130kmくらいかな?
さて次はどこに行こうかな♪
古道:古代東海道(皇居から浅草)その2
前回からの続きです。
石…でしたね。いし。
お隣にあったこの看板のタイトル?タイトル・・・?が書いてあるのですね。
吉田松陰先生終焉之地
江戸伝馬町牢屋敷跡
在町宝永時鐘
あぁあぁ、現地では全く読めませんでしたが、今ちゃんと看板と照らし合わせてみたら読めました(笑)
ここは、ちょうど小伝馬町駅の出口の目の前にあたるらしく(歩いてたから気づかなかったっ!)このあとちょっと寄る、十思公園(じっしこうえん)への案内看板?案内石?ですね。
十思公園の目の前にある神社に立ち寄ります。
準別格本山 大安楽寺です。
**********
十思公園内高野山真言宗の大安楽寺は、新高野山と号します。大安楽寺は、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年に創建したといいます。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したといいます。高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。
**********
だそうです。弘法大師さん〜!
たまたまお二人の名前が良くて、縁起の良さそうな神社の名前になったのですね。
十思公園です。
***********
吉田松陰が処刑された「伝馬町牢屋敷」跡の「十思公園」内に大きな石碑に刻まれています。小塚原刑場で処刑(斬首)された、との記述も時に見受けられますが、吉田松陰を始め幕末の国粋思想家は小伝馬町牢に置かれ、牢内で斬首されており、小塚原刑場は遺骸の取り捨てられた場所です。
***********
ぇ?吉田松陰って、処刑されたの…?(そっからか…って言わないでw)
松下村塾の人ですよね(中学社会ギリギリの知識…)
はい吉田松陰センセイについてgoogle先生に聞いてみましょう。
**********
吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。
幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約を結んだことに対して、松陰は徳川幕府が日本の最大の障害であると強烈に批判し、倒幕を主張します。
こうした動きが、長州藩に危険視され、再度、野山獄に再入獄されます。
そして安政の大獄では、弟子たちと同時にとらえられ江戸へ移管されます。
幕府での取り調べに対して幕府批判を展開し、倒幕計画および老中暗殺計画をもらしてしまったため、傳馬町牢屋敷で処刑されます。
留魂録という、松陰の遺書が残されています。
四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。
それは単なるもみがらなのか、成熟した栗の実であるのかは私の知るところではない。
もし、同志の諸君の中に私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。
**********
享年30(満29歳没)…わっか…。おじさんなのかと思ったら、私より若いじゃないですか…!! 衝撃!!
ちゃんと弟子たちの個々を見ていて、良いところを伸ばす教育をされていたのですね。
ひどいことを言ったあとに、ちゃんとごめんね、って言っているが素敵です。
やっぱり、(どんな天才でも)人は人に触れあってこそ成長し学んでいくのだなと思えました。
高須久子さんが気になりますね、
何かの時に調べてみましょうか。
で、吉田松陰先生が斬首されたのが、ココの地だったのですね。
ひょえ。
そんな吉田松陰先生の石碑が並んでいます。
この石碑たちと同じ並びに…これは…?
杵屋…?歌舞…?と文字がちらほらみえます。
杵屋勝三郎歴代記念碑
らしいです。読めない…。
あ、「杵(きね)」も読めないし、石碑の字も読め(読む気があり)ません(笑)
いつになったら、石に書いてある時を読めるようになるのかな…w
お隣に、銅板の?絵?もありました(劣化してしまい、何が書いてあるかイマイチわからなかったので写真撮ってませんが…気になる方ぐぐってみてね。)
**************
「杵屋」は江戸長唄三味線の家名。初代が、天保年間(1830~1844)に武家から出て一派を創始。二代目が最も著名で、「船弁慶」「連獅子」「時雨西行」「安達ケ原」などの名曲を残しました。二代目が十思公園に近い馬喰町に住んでいた縁故で碑が建てられました。
**************
あ、お近くにお住まいだったのですね。なるほど?
なんとなく検索していたら、きっと杵勝会というこちらのグループさんが末裔だと思われます。
杵屋さんは屋号なのですね。(きっとね)
現代でも演奏会を開いているそうですよ。
話は、吉田松陰先生も入っていた牢獄の話になるのですが、建物沿いにこんな看板もありました。
傳馬町牢屋敷の説明ですね。
博物館?には入らなかったので、公園の中にあるものだけをぐるっと見ました。
この看板の説明書きは、牢の基礎とかだったかな?
まぁ私は石見ても、どのくらい立派な基礎なのかとか解らないのですが…w
まぁ、きっとこうやって残しているくらいなので、立派な基礎なのでしょう。
周りの塀の高さは、2.4mもあったのですって。
ちなみに今の府中刑務所の兵の高さは5.5mらしいです。
拾い画像ですが、建物の中にはこんな看板もあるらしい。
牢屋敷についてちょっと調べると、
*********
時代劇でお馴染みの「伝馬町牢屋敷」は現在の中央区日本橋小伝馬町3~5丁目を占めていました。
*********
すみません、時代劇見ないので知りませんでした(というか、ずっとテレビなしで生活してて、サッカーW杯も、あんなに盛り上がったラグビーも華麗にスルー…最近、見たい番組があり、重い腰を上げてテレビを出して…半年くらいたつかな…?)
放火事件を起こした八百屋お七もここに収容されていたみたいで、八百屋お七は鈴森刑場で処刑された…ぁ!ぁ…!見たことありますよそういえば!!
↓2020年6月20日でした。
なにかのときに、羽田まで走って、帰り道に寄ったのでした。
こんなところでリンクするとは。
お七の火あぶり台をみて、暑い日だったのですが、ぞわっと2℃くらい体感温度が下がったのを覚えています。
だってここに鉄柱を立ててあぶるんですよ…。熱いというか痛いというか…。
何とも言えない気持ちになってしまいました。
お七が火あぶりの刑になったのは恋心からの放火が原因だったのですね。
それも、火事場泥棒にそそのかされてとのことだったので、なんとまぁ。
ことの発端は、お七の家の江戸の大火事でお家が焼けてしまったそうで、新しい家が建つまでのあいだ、一時的にお寺に避難したそう。そこで、避難したお寺の僧に恋をしてしまいました。(ちなみにこれ両想い。)
お家が再建され引っ越すことになったのですが、その僧にまた会いたいがために、再びおうちに火をつけたお七は、自分のしたことの罪の大きさに気が付き、すぐ警鐘をたたき、ボヤ程度で火事は収まったそう。
当然、捕まり、当時の少年法(16歳以下の適応で、16か17か微妙なお年頃だったらしい)をはねのけ、お七は自ら17歳だと役人に言い、火あぶりの刑になってしまいました。
恋人だった僧もその事態をしり、自害しようとしたのですが、悔い改め、厳しい修行を積んで最後には立派なお坊さんになったようです。
は~…今の子たちだったら自分の意志で秒で会いに行きそうな感じですが、そのころは自由に行動することが許されなかったんですかね。
切ないっ( ノД`)!!
ってわけで、同じ公園内にあるこの鐘は、お七の叩いた鐘ではなく、時報用です。
*************
石町時の鐘(こくちょうときのかね)は、東京都中央区に鐘が現存している時の鐘であり、鐘が東京都指定文化財である。また、本石町時の鐘ともいう。
時の鐘は寺社の鐘と違い、公費で運営していたので、時の鐘が聞こえる約四百町(初めは三百町ほど)の範囲から鐘撞き料(町人は間口一間につき四文)を徴収していた。
*********
従来、江戸の時の鐘は、本石町、上野寛永寺、芝切通し、市ケ谷八幡、赤坂円通寺(後に成満寺に移設)、目白不動尊、浅草寺、本所横堀、四谷天龍寺の九カ所といわれていた
*********
この鐘は、石町の鐘で、9個の鐘の中でも最古のものだそう。
牢獄から2丁ほどのところで鳴らされたこの鐘の音で刑の執行などもされていたようですね。(入口の看板から)
鐘の音が聞こえる範囲に、鐘撞き料を取っていたのも驚きですね。
あ、でも、私も少し前まで正確な時間が知りたかったら、117に電話したりしてたので、正確な時刻にお金を払うという意味合いとしてはそういうことなのかもしれません?
さて、長くなってしまいましたが十思公園をくるっと回りました。
そういえば、古代東海道を浅草方面へ向かっているのでしたね。
次のポイントは…!
名前からも、また可憐な乙女が出てきそうな予感!
お玉が池です。
ルートからは少し外れるのですが、見てみたい!っておねだりして連れてってもらいます。
ほんとに小さくてびっくりでした。
これは一人で歩いていたら見つけられなさそう…!
************
伝承によると、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされる。
『江戸名所図会』によると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある。 人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという。
また、江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化2年(1845年)の時点で池自体も存在しない。 北辰一刀流の道場「玄武館」があった場所として有名で、千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれた。 この界隈には、儒者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもあった。
*************
渋沢さんもこの玄武館に通っていたと前回出てきましたね。
お玉ちゃんモテモテだったのですね。私ならとりあえずお友達として両方キープしてみますが、ぇ?そうじゃない?(笑)
お七もそうですが、時代とは。と思ってしまいますね。
通りすがりの郡代屋敷跡です。
************
江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。伊奈忠尊が罪を得て失脚した寛政4年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。文化3年(1806)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
**********
だそうで、まぁ、お役所があったのですね(ざっくり)
朝から何も食べていなかったので、おなかすきました。
途中、なか卯ランチ案も(私がなか卯行ったことないって言ったら…笑w)あったりしたのですが、なんとなく浅草橋まで来てしまいました。
ちょっとオヤツ!ってことで、チェーン店ですが、たい焼きを頂きます。
あ、おいしい♡
完全に補給食ですっ( '-' )!
もう少し頑張って歩けそう♪
銀杏岡八幡神社です。
いちょうがおかはちまんじんじゃ。
*********
後冷泉天皇の御代、源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の地であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平五年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりました
**********
今でもイチョウの木が何本も植わっていました。
もう少ししたら色づいてキレイなのでしょう~
八幡さまを少しお参りした後に、本には載っていないのですが、須賀神社へ
【浅草橋】宮司さんと御朱印トークがはずむ神社!須賀神社へ行ってきた【東京の神社】※小さな神社の御朱印裏事情も掲載! | ちくブロ
中には入らず、入口だけ確認して先にすすんだので、どなたかのブログで宮司さんとの御朱印帳のハンコのあれこれについて語られている話などを見つけてみました。
メインストリートからはちょっと外れて、近道をし、鳥越神社へ~
大きい!
立派ですね~!!
**********
当神社は、白雉二年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。
社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1064-52)奥州の安倍貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義、義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わい、また正月八日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である
***********
鳥越神社(とりこえじんじゃ)は、東京都台東区鳥越にある神社である。白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、例年6月に開催される。
御本社宮神輿は、台輪幅4尺3寸の元祖千貫神輿で有名。
狭い下町の町内を渡御するので、大きな胴体に比べ太く短い担ぎ棒のために担ぎ手一人の負担も大きくより重く感じるので、昭和の初めよりその重さから都内で最も重い神輿と言われていた。
**********
あーいいですね、おみこし担いだことあるんですよ。
私、丑年生まれなのですが、7年に1度お祭りのある地域に15年くらい住んでいたことがあって、丑年と未年にお祭りがあるのですが、年女(24歳)になるのを記念に(?)もっと地域に根付いた新しいことをしたいと思って、着の身着のまま(?)町内会~お祭りに飛び込んでみたんです。
たまたま、地域の本家当主と、メインの神社の宮司さんと、関東でも有数の担ぎ手の頭たちと知り合うことができて、快くお迎え入れてくださったのでとても楽しかったのを覚えています。
ずっとその地域に住んでいたら、また何年も関わることになったかもですが、引っ越してしまったので、今は全くかかわりなくなってしまったのが残念ですね。
ほんと、人に恵まれてるんですよ。
運でしか生きてませんwww
********
本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代の後期の頃(1185)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村々の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉(はくち)二年(651)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(えいしょう:1046~1053)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事に渡ることができた。義家公はこれ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。
「鳥越夜祭り」
六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは夜の宮入である。火入れ式のあとに氏子衆によってかかげられた百数十の高張提灯と担ぎ手の熱気によって祭は最高潮に達する。
********
町のお名前は、神社のお名前からきているのですね。
白鳥大明神だったのが、鳥さんのご加護のおかげで川を越えられたことより、鳥越大明神となったのですね。
この町名由来看板、あちこちにあるらしいですww
鳥越神社を出て少し行くともう浅草なのですが、蔵前一丁目交差点に、看板。
天文台跡? また話が飛びますねぇ~★
*********
この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目二十一・二十二・二十三・二十四番地の全域及び十九・二十五・二十六番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として天文台がおかれていた。
天文台は、司天台、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(一七八二)、牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された・正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
その規模は「司天台の記」という史料によると、周囲約九十三・六メートル、高さ約九・三メートルの築山の上に、約五・五メートル四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、右段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは九メートルであったという。
幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。
ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父のあとを継いだ景保の進言により、文化八年(一八一一)、天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、蕃書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
天文台は天保十三年(一八四二)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
*********
正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要だったのですね。
お星さまをみて、はーきれい♡ というわけではなかったようです。
どんな天文台だったのかなー?とおもって、調べて見たら
『富嶽百景』 葛飾北斎画 浅草鳥越の図 (千葉市美術館所蔵)
貴重資料展示室006 江戸時代の天文台 - 国立天文台暦計算室
こんな感じだったみたいですね。
なんだかイメージの天文台とはだいぶ違いました。
天文台といえば、ドーム型でおっきな望遠鏡が出てくるものだと…!
*************
幕府は延享四年(1747)、宝暦の改暦の際に神田佐久間町に天文台を置いたが、10年程で改暦が終わると撤去された。ついで明和二年(1765)宝暦暦修正のため、牛込 (現在の新宿区袋町日本出版クラブ付近) に天文台が建てられた。こちらは修暦完了後も存続したが、木立が茂って観測ができなくなり天明二年(1782)に浅草片町裏に移転した。これが浅草天文台である。
*************
お引越しの順序としてはこんな感じだったみたいですね。
神田→新宿→浅草 木が茂って観測できなくなったって…えぇぇ…。
まーなんか、天文台ですら行き当たりばったりなので、私の人生も行き当たりばったりでも大丈夫そうな気がしてきましたね(?)
そんな感じで、もう今日のお散歩はご飯食べておわりなのですっ。
浅草寺にも行ったのですが、定番のキビダンゴをたべて、花やしきと周辺のお店を散策しただけなので、歴史的なものはあまりないのですww
ランチの前に、ご飯どころのお隣で、憧れのカレと記念撮影(笑)
バンダイの本社なのです。
子供たちは会社見学もできたりするみたいですっ♪
子育て時代に、めっちゃお世話になったカレにも、パンチをくらわせてみますw
横浜のアンパンマンミュージアムとか行ったな〜(懐かしい)
なか卯ランチ案からはかけ離れて、ランチはドジョウか山芋にしませんかといわれ、バンダイ本社お隣のドジョウへ。めっちゃ素敵じゃないですか!
老舗感がぷんぷんしますね。
こんなところでごはん食べられるなんて幸せだなぁ♡
ドジョウは初めて食べましたが、大人の味でおいしゅうございました。
薬味も香り高くて、持って帰りたくなっちゃいました。別売してないのかな。
山椒大好きなんですよ!
ランチ後、浅草寺方面に観光に行きます。
じゃなくて古代東海道を再び浅草方面へ歩いていきます(*´˘`)
駒形堂です。
何度もこの建物は見ていますが、名前は初めて知りましたw
浅草寺の一部なのですね。
浅草寺の中のHPに駒形堂の記述がありました。
**********
駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。駒形堂の名の由来については諸説あるが、浅草寺の一山寺院住職の故網野宥俊僧正は、「駒形堂の地が観世音菩薩上陸の地であることから、隅田川に棲む魚類に対する愛護の必要を感じ、生物の守護仏である馬頭観音を祀り、人びとが心願成就の御礼として馬形の作り物を奉納したことが名の由来ではないか」と推考している。
駒形堂は、天慶5年(942)に平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂のご本尊を拝んでから浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。
**********
す、、推古天皇? そんな古いのですね。
時代とともに川を背にするようになった…?どゆこと?
川の流れが変わったってことですかね…?
ちなみに、ランチ候補の3つ目の候補は駒形堂のお隣の、浅草麦とろ本店でした。
麦トロもおいしそう~~また何かの時に♪
横の石碑には、付近の魚類の殺生を禁じた「戒殺碑(かいさつひ)」があります。
生類憐みの令で知られる五代将軍綱吉の時代に建てられたものみたいですね。
こんなことするのは綱吉さんくらいですね…?
さて、いよいよ浅草寺です♪
年2回くらいで浅草には遊びにきている気がします。
代表格なこの提灯にたどり着く前に、
立て続けに看板を経由しますw
今まで見たこともありませんでした。
写メだけとって後で読むシリーズへ。
ようやく提灯に近づけました(笑)
りっぱりっぱ!
長くなってしまったので、浅草寺はまたいつか別枠で学びたいと思います。
さっき推古天皇とかでてきたので、歴史も古そうですね。
仲見世も賑わいが戻ってきている感じでした。良かったね。
きびだんご~♪
本堂へのお参りは、並んでたのでまた今度。
20年ぶりくらいに花やしきの前を通った気がします。
若い子がキャーキャー言ってて…(遠い目)
くるっと浅草寺界隈をまわって 、どこも混んでいたので、空いていたカフェでコーヒーを頂き、この日のお散歩は終了です♪
盛りだくさんでしたね!
こうやって点で覚えたり調べたりしたことがそのうち線でつながるはず♪
今回のルートです!
https://twitter.com/maho_s_25257/status/1317260244519514114?s=20
https://twitter.com/maho_s_25257/status/1317260244519514114?s=20
古代東海道さんぽ。
— まほ (@maho_s_25257) 2020年10月17日
大手町から浅草へ。 pic.twitter.com/ICTJOzpFW4
↓過去のおさんぽ。
古道:古代東海道(皇居から浅草)その1
https://twitter.com/maho_s_25257/status/1317260244519514114?s=20
古代東海道さんぽ。
— まほ (@maho_s_25257) 2020年10月17日
大手町から浅草へ。 pic.twitter.com/ICTJOzpFW4
2020年9月22日(祝火)晴れ
久しぶりのお散歩です♪
3回のお散歩で、多摩川から皇居まできました。
今回は、皇居から浅草方面へ歩きます。
なんか段々と繋がってきた感ありますね!
P.96 あたりのおさんぽです。
ジテツウでもここを遠目に見ながらシェアサイクルで走るのですが、いつ来てもキレイですね。
皇居、馬場先門です。
見切り発車して、ちょっと早くお家をでてきたので、芝生で座って、本を読みながら、今日のルートの予習をします。
芝生は家族連れがたのしそうに涼んでいました。
本持さんと合流して、お散歩スタートです♪
前日に久々に長く走っちゃったので(東京:神戸岩(檜原村))、少し足が重たいな。
お散歩の途中でも「元気ないね?」「疲れてる?」とご心配頂いちゃいました。
気持ちは元気なのですが、表情には少し疲れが出ていたかもしれません。
元気ですよ!!(若かりし頃の回復力は、いずこ!!)
内堀通りからみた東京駅です。
すこーしだけ、イチョウが色づいてきたようにも見えます。
銀杏がたわわに実っているのも見えます。秋ですね♪
あ、最初の皇居の看板をスッ飛ばしましたが、皇居は別枠できっと行くと思うので、その時にでも触れましょうか。
古代東海道をおさんぽ!
将門の首塚の前を通ります。
(ん?カエル??)
大手町のビルの中に、どーんと首塚がありました。
毎日そばを通っていますが、こんなところに…あるとは…。
看板がたくさんあったので、ちょっとそのまま看板シリーズをお楽しみください。
かの有名な平将門さんですね。昔すぎて名前くらいしか知りませんね…(私だけ?)
***********
平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。
平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。
下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。
しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。
死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。
*************
桓武天皇がひひひひおじーちゃん。
38歳で殺されちゃったんですって。
戦のシーンは、このへんかな?
*************
急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。(島広山石井営所跡 私鉄守谷・野田市駅からバス国王神社向い)
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古く確実な例が、この将門である。
この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。
**************
おでこに矢…いててて。
晒し首になったのですね…この首がですね…!
**************
戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、首級は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされました。しかし、無念やるかたない首は腐りもせず目を見開き、「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」 と、夜な夜な叫んだと云われています。(ここから)
3日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島軍芝崎(東京都千代田区)に落ちた。台地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。(中略)この地の守護神になったという。
**************
首が叫び飛ぶ…それは恐怖すぎるわ…。
ところで、将門さんは神田明神に祀られているのですが、なぜお墓がここに残っているのでしょう??
***************
一件落着となった将門の乱でしたが、将門のすさまじい怨念は後世まで続きます。
最初の不可思議な現象は、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建の時です。首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か2年の間に、大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなり、それ以外にも多くの怪我人・病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されました。
次は戦後になり米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止しています。
更に昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚に面した行員が次々に病気になる事態が発生し、お祓いしたという話もあります。
これ以外にも将門の祟りは枚挙に暇がなく、現在でも隣接するビルは首塚に尻を向けないようにフロアレイアウトされていたり、首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けないなどの配慮がされていると云ったことが実しやかに囁かれており、1000年以上経過した現代でも、その怨念を気にしています。
***************
大蔵大臣も死んじゃったの…。ひぇっ。
周りのビル(多分新しいビルが建っていたような…?)そんな作りだったかな? 今度前を通った時に気にしてみてみようかと思います。
(後日追記)
周りのビルこみで写メってきましたっ
右のビルは2020年7月にできたばかりのOTEMACHI ONEですね。
ホントだ。将門塚に背を向けないようなレイアウトになってますね
(将門さん、すご〜)
※追記ここまで
そいえば看板シリーズの中に、将門塚は酒井さん家の中庭だったったって書いてありましたね?
**************
酒井雅楽頭
酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩の第4代藩主。雅楽頭系酒井家9代。第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。
***************
ほぅ。
将門さんの記述はないですが、この方ですかね?
***************
非常に早口な人物であり、落書「百物頭」や「中村雑記」などに、「早言の頭」「早口なる人」と記述されている。
第四子以外の全ての子女は正妻の子供であり、尚且つ唯一正妻の子でない第四子も最初の妻と死別後再婚前の独身時代の子供である。歴史作家の海音寺潮五郎はこの点を指摘して、家庭内では律儀な愛妻家であったのではないかと推察している。
綱吉が将軍に就任すると大老を解任され、越後騒動の再審が進められる中、忠清は解任からわずか1年後に突如没した(略)
*****************
早口の愛妻家♡
と、脱線してみましたが、あんまり興味がわかないので、次行きましょう。
将門さんで盛りすぎましたww
ちなみに、成田山は将門の乱鎮圧の際に朝廷から怨敵退治の祈祷を命じた諸社諸寺であるため、神田明神や筑土神社の氏子などは、成田山に参拝すると将門の加護が受けられないという伝承があるらしいですよ。
あ、もういっこ。
将門塚にカエルがたくさんあった理由! これ気になってたんですよ。
胴体を求めて飛んできた伝説から「無事にカエル」という意味があるそうです。
(帰るっていうか…胴体までたどりついてないじゃん? とか思っちゃったのは内緒です( '-' )
大手町という場所柄、現代では拡大解釈され、
「首塚だけにこれ以上クビを斬られない」
「左遷されても舞い戻られた将門様に願かけすれば栄転して戻ってこれる」
「首を守る神様」
「海外赴任をするときに無事にカエル」
「地方に転勤になっても栄転して東京にカエル」
など縁起担ぎのパワースポットとなっているそうですよ。
「パワーが強く、不敬なことを嫌う将門様なので、軽い気持ちでのお参りは絶対に進めません」とのことなので、お願いするときは礼儀正しくきちっとお願いしましょうね。
さて、将門塚を出て新日本橋方面に歩いていきます。
JR新日本橋駅の4番出口を出たすぐのところに、こんな看板が立っています。
長崎屋跡
******************
(薬種商)
江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。
(旅宿として)
この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた。カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の1つとなっていた。身分は町人であるため江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった。
カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、最上徳内、高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている。
***************
その北斎の絵が、看板に描かれている絵なのですね。
他にも、輸入蘭書の販売や、西洋銃の入札払いもしていたそうで、結構手広く商売していたのですね。
それだけ手広くやってたのだから、今も何かしらの形で会社が残っているのかと思ったら、長崎屋の歴史は徳川家の歴史とともにあり、その滅亡とともにその歴史を終えたらしいのです。
あらら。
常盤橋です。ですが…工事中です。
東日本大震災で崩れかかってしまったのですね。
ほぅ。石と石の間に隙間が空いている写真とかもありました。
8cm?何センチだっけ? なかなか盛大にズレちゃったみたいです(適当)
ん~~どこかから橋見えないかな~~と思ったら、見えました!
おぉっ!! めっちゃキレイになってる!!
もう少しそばで見るとこんな感じでした。白いの大理石?
これは結構出来上がっているのでは??
もうすぐ通れそうな雰囲気です。
そして、(上に高速がなければ)いい雰囲気なのではないでしょうか~♪
本に書いてあった見どころだという、江戸時代の石垣はそのまま残っていました。
開通が楽しみですね。
渋沢栄一です。
(ん~だれだっけ? 次の1万円札の人…! 実業家??政治家??)
*************
日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一の銅像は、日本橋川沿いにある常盤橋公園にある。
戦争による金属回収で一度は撤去されたが、昭和30年に再建された。
渋沢栄一は、日本初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ)や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上の設立に関与した大実業家でした。
22歳で江戸へ出て、お玉ヶ池にあった玄武館で剣術修行をしている。また、神田小川町裏神保小道に住んでいたこともあった。
スポット(渋沢栄一像)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda
***********
お玉ヶ池! この後出てきますよ。
玄武館があったのですね。埼玉県の生まれですが、このあたりに住んでいたこともあったみたいですね。
***********
【碑文】
青淵澁澤榮一翁は 天保11年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり 後轉じて幕臣となって 慶應3年歐州に赴き 民主主義自由主義を知る機會を得た 歸朝後大蔵省に任官して諸制度の改革に當ったが 明治6年退官し 同年創立された第一國立銀行の頭取となり 爾来産業経濟の指導育成に任じ關與した會社五百 常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實踐し我が國運の發展に偉大な貢獻をした
また 東京市養育院等社會事業の助成 一橋大學日本女子大學等實業及び女子教育の育成 協調會等による勞資の協調 日華日米親善等世界平和の促進 道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し 昭和6年11月11日に逝去した
翁の歿後 財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が 昭和8年此処に銅像を建立したが 第二次世界大戦中金属供出のために撤去された 然るにこのたび 銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって 再び朝倉文夫氏に製作を委嘱し 舊位置にこの銅像を建て 東京都に寄附したのである
昭和30年11月
澁澤青淵記念財団龍門社
************
碑文は、文体が難しい…。
みずほ銀行、JR東日本、帝国ホテル、東京海上日動、東急電鉄、東京ガス、東京証券取引所、日本郵船などなどたくさんの会社の設立にかかわったそう。
(すご~~)
なんて思ってたら、お向かいさんが日銀です。
(日銀…? ってこんなんでしたっけ…?)
イメージの日銀って(高速からばかりみてるから…かな?)
こういう~ あれ?「円」に見える?
そそ、こういう~~~感じ?だったのですが、地上から見るとイメージと少し違うのですね。
**********
日銀本店が着工されたのは明治24年(1891年)。このとき紙幣で使用していた文字は「円」でなく旧字体の「圓」。この表記は戦後の昭和21年(1946年)に新字体の「円」になるまで変わっていません。そこで屋根の形は、意識的に設計したものではなく、「偶然の造形」というのが大方の意見のようです。
天空から2 日銀本店を上から見れば | フォーラムミカサ エコ
設計者は明治建築界の重鎮で、中央停車場(東京駅)、万世橋駅等、全国に数々の名作を残した、近代建築の父といわれたあの辰野金吾氏。
日銀本店の屋根の造形も、円という略字の固定化が今後決定的になってくるという読み、後に日銀本店よりも高い建物がどんどん出来てきて屋根の形が人々の目に触れるという建築家としての判断から、将来世間を驚かせてみようという辰野氏の仕掛けという気がします。
**********
円なのかな? どうなのかな?
今となっては真相はわからないのですね。
目の前の貨幣博物館に寄ろうか?と一瞬話がでたのですが、浅草につかないので、今回はスルーです。
また今度行ってみたいですね。
7世紀後半からお金っていう概念があったのですね。
いつだか、日銀の子供向けのHPを見たときに(あれ?とおもったら、「にちぎん☆キッズ」は2020年8月で提供終了しちゃったのですね)、
「おかねは、みんなが価値のあるものだと信じてないとお金として通用しないんだよ」
みたいなこと書いてあって、当たり前のことなのですが、結構衝撃でした。
さて、日銀を出て、また少し歩いていくと歩道に…
石‥‥(笑) なんだこれはw
長くなってしまったので(将門さんが長かった…w)
続きは次回にしますね。
古道:古代東海道(皇居から浅草)その2 へ、つづく。