古道:古代東海道(皇居から浅草)その2
前回からの続きです。
石…でしたね。いし。
お隣にあったこの看板のタイトル?タイトル・・・?が書いてあるのですね。
吉田松陰先生終焉之地
江戸伝馬町牢屋敷跡
在町宝永時鐘
あぁあぁ、現地では全く読めませんでしたが、今ちゃんと看板と照らし合わせてみたら読めました(笑)
ここは、ちょうど小伝馬町駅の出口の目の前にあたるらしく(歩いてたから気づかなかったっ!)このあとちょっと寄る、十思公園(じっしこうえん)への案内看板?案内石?ですね。
十思公園の目の前にある神社に立ち寄ります。
準別格本山 大安楽寺です。
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十思公園内高野山真言宗の大安楽寺は、新高野山と号します。大安楽寺は、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年に創建したといいます。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したといいます。高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。
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だそうです。弘法大師さん〜!
たまたまお二人の名前が良くて、縁起の良さそうな神社の名前になったのですね。
十思公園です。
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吉田松陰が処刑された「伝馬町牢屋敷」跡の「十思公園」内に大きな石碑に刻まれています。小塚原刑場で処刑(斬首)された、との記述も時に見受けられますが、吉田松陰を始め幕末の国粋思想家は小伝馬町牢に置かれ、牢内で斬首されており、小塚原刑場は遺骸の取り捨てられた場所です。
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ぇ?吉田松陰って、処刑されたの…?(そっからか…って言わないでw)
松下村塾の人ですよね(中学社会ギリギリの知識…)
はい吉田松陰センセイについてgoogle先生に聞いてみましょう。
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吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。
幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約を結んだことに対して、松陰は徳川幕府が日本の最大の障害であると強烈に批判し、倒幕を主張します。
こうした動きが、長州藩に危険視され、再度、野山獄に再入獄されます。
そして安政の大獄では、弟子たちと同時にとらえられ江戸へ移管されます。
幕府での取り調べに対して幕府批判を展開し、倒幕計画および老中暗殺計画をもらしてしまったため、傳馬町牢屋敷で処刑されます。
留魂録という、松陰の遺書が残されています。
四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。
それは単なるもみがらなのか、成熟した栗の実であるのかは私の知るところではない。
もし、同志の諸君の中に私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。
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享年30(満29歳没)…わっか…。おじさんなのかと思ったら、私より若いじゃないですか…!! 衝撃!!
ちゃんと弟子たちの個々を見ていて、良いところを伸ばす教育をされていたのですね。
ひどいことを言ったあとに、ちゃんとごめんね、って言っているが素敵です。
やっぱり、(どんな天才でも)人は人に触れあってこそ成長し学んでいくのだなと思えました。
高須久子さんが気になりますね、
何かの時に調べてみましょうか。
で、吉田松陰先生が斬首されたのが、ココの地だったのですね。
ひょえ。
そんな吉田松陰先生の石碑が並んでいます。
この石碑たちと同じ並びに…これは…?
杵屋…?歌舞…?と文字がちらほらみえます。
杵屋勝三郎歴代記念碑
らしいです。読めない…。
あ、「杵(きね)」も読めないし、石碑の字も読め(読む気があり)ません(笑)
いつになったら、石に書いてある時を読めるようになるのかな…w
お隣に、銅板の?絵?もありました(劣化してしまい、何が書いてあるかイマイチわからなかったので写真撮ってませんが…気になる方ぐぐってみてね。)
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「杵屋」は江戸長唄三味線の家名。初代が、天保年間(1830~1844)に武家から出て一派を創始。二代目が最も著名で、「船弁慶」「連獅子」「時雨西行」「安達ケ原」などの名曲を残しました。二代目が十思公園に近い馬喰町に住んでいた縁故で碑が建てられました。
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あ、お近くにお住まいだったのですね。なるほど?
なんとなく検索していたら、きっと杵勝会というこちらのグループさんが末裔だと思われます。
杵屋さんは屋号なのですね。(きっとね)
現代でも演奏会を開いているそうですよ。
話は、吉田松陰先生も入っていた牢獄の話になるのですが、建物沿いにこんな看板もありました。
傳馬町牢屋敷の説明ですね。
博物館?には入らなかったので、公園の中にあるものだけをぐるっと見ました。
この看板の説明書きは、牢の基礎とかだったかな?
まぁ私は石見ても、どのくらい立派な基礎なのかとか解らないのですが…w
まぁ、きっとこうやって残しているくらいなので、立派な基礎なのでしょう。
周りの塀の高さは、2.4mもあったのですって。
ちなみに今の府中刑務所の兵の高さは5.5mらしいです。
拾い画像ですが、建物の中にはこんな看板もあるらしい。
牢屋敷についてちょっと調べると、
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時代劇でお馴染みの「伝馬町牢屋敷」は現在の中央区日本橋小伝馬町3~5丁目を占めていました。
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すみません、時代劇見ないので知りませんでした(というか、ずっとテレビなしで生活してて、サッカーW杯も、あんなに盛り上がったラグビーも華麗にスルー…最近、見たい番組があり、重い腰を上げてテレビを出して…半年くらいたつかな…?)
放火事件を起こした八百屋お七もここに収容されていたみたいで、八百屋お七は鈴森刑場で処刑された…ぁ!ぁ…!見たことありますよそういえば!!
↓2020年6月20日でした。
なにかのときに、羽田まで走って、帰り道に寄ったのでした。
こんなところでリンクするとは。
お七の火あぶり台をみて、暑い日だったのですが、ぞわっと2℃くらい体感温度が下がったのを覚えています。
だってここに鉄柱を立ててあぶるんですよ…。熱いというか痛いというか…。
何とも言えない気持ちになってしまいました。
お七が火あぶりの刑になったのは恋心からの放火が原因だったのですね。
それも、火事場泥棒にそそのかされてとのことだったので、なんとまぁ。
ことの発端は、お七の家の江戸の大火事でお家が焼けてしまったそうで、新しい家が建つまでのあいだ、一時的にお寺に避難したそう。そこで、避難したお寺の僧に恋をしてしまいました。(ちなみにこれ両想い。)
お家が再建され引っ越すことになったのですが、その僧にまた会いたいがために、再びおうちに火をつけたお七は、自分のしたことの罪の大きさに気が付き、すぐ警鐘をたたき、ボヤ程度で火事は収まったそう。
当然、捕まり、当時の少年法(16歳以下の適応で、16か17か微妙なお年頃だったらしい)をはねのけ、お七は自ら17歳だと役人に言い、火あぶりの刑になってしまいました。
恋人だった僧もその事態をしり、自害しようとしたのですが、悔い改め、厳しい修行を積んで最後には立派なお坊さんになったようです。
は~…今の子たちだったら自分の意志で秒で会いに行きそうな感じですが、そのころは自由に行動することが許されなかったんですかね。
切ないっ( ノД`)!!
ってわけで、同じ公園内にあるこの鐘は、お七の叩いた鐘ではなく、時報用です。
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石町時の鐘(こくちょうときのかね)は、東京都中央区に鐘が現存している時の鐘であり、鐘が東京都指定文化財である。また、本石町時の鐘ともいう。
時の鐘は寺社の鐘と違い、公費で運営していたので、時の鐘が聞こえる約四百町(初めは三百町ほど)の範囲から鐘撞き料(町人は間口一間につき四文)を徴収していた。
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従来、江戸の時の鐘は、本石町、上野寛永寺、芝切通し、市ケ谷八幡、赤坂円通寺(後に成満寺に移設)、目白不動尊、浅草寺、本所横堀、四谷天龍寺の九カ所といわれていた
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この鐘は、石町の鐘で、9個の鐘の中でも最古のものだそう。
牢獄から2丁ほどのところで鳴らされたこの鐘の音で刑の執行などもされていたようですね。(入口の看板から)
鐘の音が聞こえる範囲に、鐘撞き料を取っていたのも驚きですね。
あ、でも、私も少し前まで正確な時間が知りたかったら、117に電話したりしてたので、正確な時刻にお金を払うという意味合いとしてはそういうことなのかもしれません?
さて、長くなってしまいましたが十思公園をくるっと回りました。
そういえば、古代東海道を浅草方面へ向かっているのでしたね。
次のポイントは…!
名前からも、また可憐な乙女が出てきそうな予感!
お玉が池です。
ルートからは少し外れるのですが、見てみたい!っておねだりして連れてってもらいます。
ほんとに小さくてびっくりでした。
これは一人で歩いていたら見つけられなさそう…!
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伝承によると、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされる。
『江戸名所図会』によると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある。 人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという。
また、江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化2年(1845年)の時点で池自体も存在しない。 北辰一刀流の道場「玄武館」があった場所として有名で、千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれた。 この界隈には、儒者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもあった。
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渋沢さんもこの玄武館に通っていたと前回出てきましたね。
お玉ちゃんモテモテだったのですね。私ならとりあえずお友達として両方キープしてみますが、ぇ?そうじゃない?(笑)
お七もそうですが、時代とは。と思ってしまいますね。
通りすがりの郡代屋敷跡です。
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江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。伊奈忠尊が罪を得て失脚した寛政4年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。文化3年(1806)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
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だそうで、まぁ、お役所があったのですね(ざっくり)
朝から何も食べていなかったので、おなかすきました。
途中、なか卯ランチ案も(私がなか卯行ったことないって言ったら…笑w)あったりしたのですが、なんとなく浅草橋まで来てしまいました。
ちょっとオヤツ!ってことで、チェーン店ですが、たい焼きを頂きます。
あ、おいしい♡
完全に補給食ですっ( '-' )!
もう少し頑張って歩けそう♪
銀杏岡八幡神社です。
いちょうがおかはちまんじんじゃ。
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後冷泉天皇の御代、源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の地であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平五年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりました
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今でもイチョウの木が何本も植わっていました。
もう少ししたら色づいてキレイなのでしょう~
八幡さまを少しお参りした後に、本には載っていないのですが、須賀神社へ
【浅草橋】宮司さんと御朱印トークがはずむ神社!須賀神社へ行ってきた【東京の神社】※小さな神社の御朱印裏事情も掲載! | ちくブロ
中には入らず、入口だけ確認して先にすすんだので、どなたかのブログで宮司さんとの御朱印帳のハンコのあれこれについて語られている話などを見つけてみました。
メインストリートからはちょっと外れて、近道をし、鳥越神社へ~
大きい!
立派ですね~!!
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当神社は、白雉二年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。
社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1064-52)奥州の安倍貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義、義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わい、また正月八日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である
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鳥越神社(とりこえじんじゃ)は、東京都台東区鳥越にある神社である。白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、例年6月に開催される。
御本社宮神輿は、台輪幅4尺3寸の元祖千貫神輿で有名。
狭い下町の町内を渡御するので、大きな胴体に比べ太く短い担ぎ棒のために担ぎ手一人の負担も大きくより重く感じるので、昭和の初めよりその重さから都内で最も重い神輿と言われていた。
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あーいいですね、おみこし担いだことあるんですよ。
私、丑年生まれなのですが、7年に1度お祭りのある地域に15年くらい住んでいたことがあって、丑年と未年にお祭りがあるのですが、年女(24歳)になるのを記念に(?)もっと地域に根付いた新しいことをしたいと思って、着の身着のまま(?)町内会~お祭りに飛び込んでみたんです。
たまたま、地域の本家当主と、メインの神社の宮司さんと、関東でも有数の担ぎ手の頭たちと知り合うことができて、快くお迎え入れてくださったのでとても楽しかったのを覚えています。
ずっとその地域に住んでいたら、また何年も関わることになったかもですが、引っ越してしまったので、今は全くかかわりなくなってしまったのが残念ですね。
ほんと、人に恵まれてるんですよ。
運でしか生きてませんwww
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本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代の後期の頃(1185)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村々の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉(はくち)二年(651)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(えいしょう:1046~1053)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事に渡ることができた。義家公はこれ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。
「鳥越夜祭り」
六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは夜の宮入である。火入れ式のあとに氏子衆によってかかげられた百数十の高張提灯と担ぎ手の熱気によって祭は最高潮に達する。
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町のお名前は、神社のお名前からきているのですね。
白鳥大明神だったのが、鳥さんのご加護のおかげで川を越えられたことより、鳥越大明神となったのですね。
この町名由来看板、あちこちにあるらしいですww
鳥越神社を出て少し行くともう浅草なのですが、蔵前一丁目交差点に、看板。
天文台跡? また話が飛びますねぇ~★
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この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目二十一・二十二・二十三・二十四番地の全域及び十九・二十五・二十六番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として天文台がおかれていた。
天文台は、司天台、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(一七八二)、牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された・正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
その規模は「司天台の記」という史料によると、周囲約九十三・六メートル、高さ約九・三メートルの築山の上に、約五・五メートル四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、右段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは九メートルであったという。
幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。
ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父のあとを継いだ景保の進言により、文化八年(一八一一)、天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、蕃書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
天文台は天保十三年(一八四二)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
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正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要だったのですね。
お星さまをみて、はーきれい♡ というわけではなかったようです。
どんな天文台だったのかなー?とおもって、調べて見たら
『富嶽百景』 葛飾北斎画 浅草鳥越の図 (千葉市美術館所蔵)
貴重資料展示室006 江戸時代の天文台 - 国立天文台暦計算室
こんな感じだったみたいですね。
なんだかイメージの天文台とはだいぶ違いました。
天文台といえば、ドーム型でおっきな望遠鏡が出てくるものだと…!
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幕府は延享四年(1747)、宝暦の改暦の際に神田佐久間町に天文台を置いたが、10年程で改暦が終わると撤去された。ついで明和二年(1765)宝暦暦修正のため、牛込 (現在の新宿区袋町日本出版クラブ付近) に天文台が建てられた。こちらは修暦完了後も存続したが、木立が茂って観測ができなくなり天明二年(1782)に浅草片町裏に移転した。これが浅草天文台である。
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お引越しの順序としてはこんな感じだったみたいですね。
神田→新宿→浅草 木が茂って観測できなくなったって…えぇぇ…。
まーなんか、天文台ですら行き当たりばったりなので、私の人生も行き当たりばったりでも大丈夫そうな気がしてきましたね(?)
そんな感じで、もう今日のお散歩はご飯食べておわりなのですっ。
浅草寺にも行ったのですが、定番のキビダンゴをたべて、花やしきと周辺のお店を散策しただけなので、歴史的なものはあまりないのですww
ランチの前に、ご飯どころのお隣で、憧れのカレと記念撮影(笑)
バンダイの本社なのです。
子供たちは会社見学もできたりするみたいですっ♪
子育て時代に、めっちゃお世話になったカレにも、パンチをくらわせてみますw
横浜のアンパンマンミュージアムとか行ったな〜(懐かしい)
なか卯ランチ案からはかけ離れて、ランチはドジョウか山芋にしませんかといわれ、バンダイ本社お隣のドジョウへ。めっちゃ素敵じゃないですか!
老舗感がぷんぷんしますね。
こんなところでごはん食べられるなんて幸せだなぁ♡
ドジョウは初めて食べましたが、大人の味でおいしゅうございました。
薬味も香り高くて、持って帰りたくなっちゃいました。別売してないのかな。
山椒大好きなんですよ!
ランチ後、浅草寺方面に観光に行きます。
じゃなくて古代東海道を再び浅草方面へ歩いていきます(*´˘`)
駒形堂です。
何度もこの建物は見ていますが、名前は初めて知りましたw
浅草寺の一部なのですね。
浅草寺の中のHPに駒形堂の記述がありました。
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駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。駒形堂の名の由来については諸説あるが、浅草寺の一山寺院住職の故網野宥俊僧正は、「駒形堂の地が観世音菩薩上陸の地であることから、隅田川に棲む魚類に対する愛護の必要を感じ、生物の守護仏である馬頭観音を祀り、人びとが心願成就の御礼として馬形の作り物を奉納したことが名の由来ではないか」と推考している。
駒形堂は、天慶5年(942)に平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂のご本尊を拝んでから浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。
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す、、推古天皇? そんな古いのですね。
時代とともに川を背にするようになった…?どゆこと?
川の流れが変わったってことですかね…?
ちなみに、ランチ候補の3つ目の候補は駒形堂のお隣の、浅草麦とろ本店でした。
麦トロもおいしそう~~また何かの時に♪
横の石碑には、付近の魚類の殺生を禁じた「戒殺碑(かいさつひ)」があります。
生類憐みの令で知られる五代将軍綱吉の時代に建てられたものみたいですね。
こんなことするのは綱吉さんくらいですね…?
さて、いよいよ浅草寺です♪
年2回くらいで浅草には遊びにきている気がします。
代表格なこの提灯にたどり着く前に、
立て続けに看板を経由しますw
今まで見たこともありませんでした。
写メだけとって後で読むシリーズへ。
ようやく提灯に近づけました(笑)
りっぱりっぱ!
長くなってしまったので、浅草寺はまたいつか別枠で学びたいと思います。
さっき推古天皇とかでてきたので、歴史も古そうですね。
仲見世も賑わいが戻ってきている感じでした。良かったね。
きびだんご~♪
本堂へのお参りは、並んでたのでまた今度。
20年ぶりくらいに花やしきの前を通った気がします。
若い子がキャーキャー言ってて…(遠い目)
くるっと浅草寺界隈をまわって 、どこも混んでいたので、空いていたカフェでコーヒーを頂き、この日のお散歩は終了です♪
盛りだくさんでしたね!
こうやって点で覚えたり調べたりしたことがそのうち線でつながるはず♪
今回のルートです!
https://twitter.com/maho_s_25257/status/1317260244519514114?s=20
https://twitter.com/maho_s_25257/status/1317260244519514114?s=20
古代東海道さんぽ。
— まほ (@maho_s_25257) 2020年10月17日
大手町から浅草へ。 pic.twitter.com/ICTJOzpFW4
↓過去のおさんぽ。