古道:古代東海道(大井町〜芝)
2020年5月29日(金)晴れ
車の通れない不思議な踏切、品川道踏切を出発!
道なりに行くと、品川寺のほうに行ってしまうらしく、なるべく北方面に歩き、居木橋を目指します。
イメージでいうと、大井町駅を背にして、北東ではなく、真北に向かう感じ。
線路沿い、桜並木の細い小道を歩いていたら、居木橋です。
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居木橋(いるきばし)
現在の環状6号線は、室町時代以前のころから、品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿からちょうど1kmのこのあたりで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆら揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えると、もう品川宿も近いと思ったことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この「ゆるぎの松」が「時の流れとともに変化し、「いるきの松」と呼ばれ、ここにかかるい居木橋の名前の由来となったといわれています。当時の旅人にも親しまれた「居木の松」も安政年間に暴風雨で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが、現在の森永橋の付近にあったと伝えられています。
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と、近くの看板に書いてありました。
(ほぅ。)
長い時間歩いて旅をして、宿まであとちょっと! という目印の木が見えた瞬間はうれしかったでしょうね。
ヒルクライムしてて、頂上まであと1km看板が見えた気分でしょうか(違ww)
五反田~品川あたりなので、大きい通りにはなじみがありますが、ほぼほぼ普通では通りえない、住宅街をずんずん歩いていきます。
二本榎通りは何度か品川周辺あたりは、走ったことがあるので、
(あー…! 角にケーキ屋さんがあるところだ♡)
とか思いつつ、まぁこの気温じゃ持ち帰れもしないので、スルーなのですが…。
しばらく歩いていくと、
消防署が見えます。
高輪消防署二本榎出張所です。
立派ですね~!
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二本榎の由来。
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い 丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪何丁目などと他名は変わりましたが、「榎」は幾度となく新植・移植が行われ、町の大切な象徴になっております。
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と、そこある看板に書いてありましたw
エノキさん…枯れたんじゃなかったのか?? ふむ。ふむ??
居木橋の時もそうでしたが、宿に行く目印には遠くからでも見えるように木を植えたのですね。
唐突ですが、
「おなか減ったね!」
ってことで、イイ感じのサンドイッチ屋さんで軽食にします。
ここのそばの公園でいただきました♪
更に北上すると、承教寺(じょうきょうじ)があります。
(ぬーん)
なんじゃこりゃ…。いやぁ…。
狛犬らしいのですが、ちょっとなんかこーいろいろイメージからかけ離れてます。
ちょっと調べて見ると、
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承教寺山門前にに狛犬に似て、狛犬ともちがう石造の動物の置物があります。
これは、「件(くだん)」と言います。「件」の文字通り、半人半牛の姿をした怪物です。
幕末頃の伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされています。生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされています。
この置物は、承教寺の檀家の方が寄進したものだそうです。
承教寺(高輪散歩6) : 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録
より抜粋。
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牛から生まれ、人の言葉を話すって…ビックリすぎますね。
ってもうすでに「犬」じゃないじゃん…?ww
(*ˊᗜˋ*)w𐤔
えーっと、承教寺には…
誰かのお墓があるらしいですね(読んでないwww)
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英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(いさぶろう)、次右衛門(じえもん)、助之進(すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。剃髪後に多賀朝湖(たが ちょうこ)と名乗るようになった。俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)。
名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。なお、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。
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ダメだ…! 漢字が多すぎます。
改名しすぎ〜!
お好きな方は読んでみてください。
ちなみに、この方、島流しにあったらしいのですが(原因は諸説あり)
その、説のひとつに、「釣りの罪」とあり、
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町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、綱吉政権が発令した生類憐れみの令違反とされた(同年、追加条例として“釣り具の販売禁止令”すらも出ている)。
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生類憐れみの令違反ですってよ。社会で習ったよね。
(なにこれ?へんなワガママ法律~?)
とか学生時代の私は思っていましたが、これの違反が原因で島流しにあった人がいたとは…
そしてこの方、島流された先の島でも釣りをしていたらしいです。いやはや。
承教寺をでてしばらく歩くと反対側に石碑が現れます。というかよく見てないと見過ごします。マンションの看板かと思った…!
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんですね。
ここ(細川邸跡)でなくなったらしいのです。
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大石 良雄(おおいし よしお/よしたか 万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し(寺坂信行を除く)、公儀の裁きに処分を委ねた。翌16年、幕府の処断により四十六士は切腹となった[1](赤穂事件)。
良雄は諱で、通称(仮名)は内蔵助。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。
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切腹の話はこのあたり。
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仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。
元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主・吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、良雄と面識がある幕府目付・荒木政羽であった。良雄は細川家家臣・安場一平の介錯で切腹した。享年45。亡骸は主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士。
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ぁ、高輪の泉岳寺にお墓があるのですね。
話は飛んで、伊皿子坂との交差点に「歯科医学教育発祥の地」碑があります。
野口英世さんも教壇に立ったのですって!
今の東京歯科大ですね。
水道橋の駅から見えるところにありますね。
あのあたり桜がキレイなので、何度かお散歩で行ったことがあります。
さて、道的には公園にこのあと行くのですが、はなしは、とってもとってもさかのぼり、縄文時代です。
伊皿子貝塚遺跡です。
公園の中に、どーんと弥生時代のおうちが建っています。貝塚の説明もありました。
そこからまた少し歩くと、亀塚公園です。
亀塚という小高い部分があり、古墳ともいわれているようですが、古墳じゃないかもって書いてありますね(笑)
この、亀山の頂上に碑があります。
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亀山碑。
亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼煕によって寛延三年(1750年)に建てられたものです。土岐家は、明暦三年(1657年)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文に秀でた大名といわれた頼煕は、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の故地であることや、 塚の頂部に酒壺があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるために、この碑を建立したと考えられています。大名が邸内に建立した石碑として貴重なものです。
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(酒壺?? 亀?? どっからでてきた…
そういうこと考えちゃいけないのか。)
亀塚公園の裏に長〜い階段があり、降りていくと、御田八満神社があります。
あの後ろの山の上が公園ですね。
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御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は、日本の東京都港区三田にある神社である。
誉田別尊命(ほんだわけのみこと、八幡神)を主祭神とし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)を配祀とする。
海側斜面に位置する。江戸時代には直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開け、さぞかし風光明媚であったと考えられる。明治40年代芝浦の埋め立てが始まりその面影を失うことになる。周囲の木々の剪定は最低限にとどめられ、あたり一面薄暗く蕭蕭とした雰囲気を漂わせている。裏手の高台には亀塚公園が隣接する。
平成21年には鎮祀1300年記念として、8月1日に式年例祭が、2日には御神輿渡御が斎行された。
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1300年〜! 江戸時代には直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開け…。ほ~。高台なので、相当きれいに海が見えたでしょうね。歴史ある神社なのでしょうね。
ちなみに亀塚との高低差は、他の方の記録によると、高低差が20.4メートル、段数は136段、傾斜23度らしいです。階段の途中にベンチが備え付けてありました。
これお年寄りは一気に登れないよねぇ…。
私も息も絶え…絶え…階段を登り、亀塚に戻ってきましたw
亀塚公園内の地図の前でちょっと小休止。
更級日記ね~この公園内、良く出てきますね~…なんだっけそれ…。
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『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)は、平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。作者13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。
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東の国・上総の国府に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、寛仁4年(1020年)9月に上総から京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆する。『源氏物語』を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。
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菅原孝標女さんの人生の日記なのですね。なるほど。
亀塚公園を離れ、数十メートル…次のチェックポイントです!
「最初のフランス公使宿館跡」
済海寺にはフランス公使館があったのですね。
ここまで来たら、あとは聖坂を下って…東京タワーが見えるはず!!
この聖坂、ジテツウでたまに都心方面から登ってくるのですが、真っすぐでキツイ…!!
ストラバのセグメントでは、200m/6.9%らしいです。
っと、坂をくだる前に、左側に亀塚神社があります。
板碑ですね。うすっぺら~い!(感想もうすっぺら〜い!)
港区に現存する板碑では最古だそうです。
聖坂をくだり、一国の通りにでます。
東京タワーが見える通りを歩いていくと、春日神社ですね。
この辺、慶応大学のお膝元なので、歩いている人みんな賢く見えます(笑)
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春日神社
天徳二年(958年)武蔵国国司藤原正房卿任国の折、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国春日社第三殿に祀る天児屋根命の御神霊を勧請鎮座。
当時、武蔵国荏原三田邑にあって土地の人びとより大いに崇敬され、その後建仁3年(1203年)仏教の隆盛に伴い、当社にも十一面観音(弘法大師作)の尊像を安置、神仏相まって繁栄し神徳四辺に輝き渡ったと伝える。
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由緒ある神社なのですね、
しかし、社務所の受付時間が日没までって…笑。
社務所に御用のある方、日没の時間を調べていってくださいね。
そそ、ここで、通りすがりの看板…旧町名由来板めぐり。
18…。少なくとも港区(?)に18枚以上あるみたいですね。
たまたま見つけたこれは…
三田・赤羽町・三田功運町の由来が書いてありました。
赤羽の由来なんかは面白いですね。
増上寺の横の坂は土器坂(かわらけさか)というのですが、由来はこのあたりなのがわかります。
今日のゴールが見えてきました。
東京タワー!
いつ見てもイイですね。
芝公園からの東京タワーです。バラが咲いていてとても素敵な空間です。
時々お散歩で立ち寄るスポットです。
この日も多くの子供連れや、ワンちゃんの散歩をしている方がいました。
きっとテレワークをしている、パソコン持った海外の方もいましたw
一国のクランクのところにある、大阪屋さんのアマビエさんを頂きます。
ジテツウでほぼ毎日前を通っていますが、立ち寄ったのは初めてでした。
だいぶ日が傾いてきました。
芝公園は増上寺の隣(昔は増上寺の敷地だったらしい)とてもきれいな芝生の公園ですが、実はここ、古墳なのです。しかもかなり大きい!
古墳の頂上です。
伊能忠敬の碑があります。
突然どうした!?って感じなのですが、
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伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てました。明治22年に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されましたが、戦災で失われたため、昭和40年に現在のものが再建されました。
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ってことらしいです。測量の起点ね~なるほど。
反対側から登ってきてしまいましたが、古墳の入り口ですね。
貝塚もあったらしいのです。
本日2つ目の貝塚。わずかですが土器も一緒に出土したみたいですね。
(トラ? とら…?? と……??)
昭和38年6月調理師法施行5周年にあたって、長年調理師会の名誉会長として尽力した政治家大野伴睦の労に謝するため贈呈されたものです。(上のサイトより)
調理師法施行…トラ…。ん。わからん。
芝丸山古墳
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芝丸山古墳(しばまるやまこふん)は、東京都港区芝公園にある古墳。形状は前方後円墳。東京都指定史跡に指定されている。
芝公園が所在する標高約16メートルの台地先端部に位置し、前方部を南南西に向ける前方後円墳である。
築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。
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都内最大級~!
小高い丘になっていて、お散歩には最適な場所ですね♪
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当宮「芝東照宮(しばとうしょうぐう)」は、当初、増上寺内境内に勧請された。増上寺は天正十八年(一五九〇)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められた。
当時は日比谷にあったが、慶長三年(一五九八)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転した。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持った。
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ほぅ~…。
天然記念物らしい!
HPによると、
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神木の大イチョウ
寛永八年(一六四一)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられる。
昭和五年(一九三〇)史跡名勝天然記念物保存法に基づいて、国の天然記念物に指定されたが、昭和二十七年の文化財保護法の改正の時、国指定は一旦解除、昭和三十一年に東京都の文化財保護条例に基づき「天然記念物」に指定し直され現在に至っている。
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家光さんが植えたの? ほんとに??
1641年…? 今2020年だから、樹齢380年…すご~!
都内のど真ん中にこんなのがあるんですね。
読めないので、芝公園に戻ります。
芝公園内の平和の灯です。
ほんとに火がともっています。
増上寺と夕暮れの東京タワー。
夜景も良さそうなスポットですね。
光っている東京タワーは長らく見てないなぁ〜?
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増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。
その後、1470(文明2)年には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。
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浄土宗ですね。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。」とお念仏を唱えることで人々が救われると法然上人が説いたのでしたね。
こんなに人のいない増上寺もなかなかないですね。
鐘楼堂です。
江戸三大名鐘のひとつに数えられ、東日本最大級として知られているそうです。
増上寺を出て、駅まで歩く途中に門が出てきます。
これまたキレイな門ですね。
有章院
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有章院霊廟(ゆうしょういんれいびょう)は、江戸幕府七代将軍徳川家継の霊廟建築。芝増上寺(東京都港区芝公園)に造営された。
建物は豪華な彩色や彫刻で飾られていたが、1945年、太平洋戦争の空襲で大部分が焼失した。
有章院霊廟は増上寺本堂北側の北御霊屋の北半部を占め、東を正面として営まれていた。所在地は現在の港区芝公園、東京プリンスホテルの敷地にあたる。
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だそうで、もともとは、とても広い敷地だったのですね。
この日は芝公園ゴールでしたので、ここで終わりです。
なかなか見どころがたくさんあるお散歩でした♪
今回のルートです。
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次はどこに行こうかな〜??