古道:品川道(沼部〜洗足池〜大井)その2
その1からの続きです。
中原街道を洗足池方面に向かって歩いていると、呑川と交差するところに突如として石碑が現れます。
(正面には南無妙法蓮華経と書いてあるみたい。なじみはあるけど詳しくは知らないな…。そもそも仏教の知識が足りない…!)
Googleせんせ~!
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南無妙法蓮華経と世界で初めて祈ったのは日蓮である、と思っている人も多いと思います。確かに、南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏のように声に出して唱える――これを唱題(しょうだい)といいますが――これを広く世に広めたのは日蓮です。
(以下より抜粋)
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調べるとYouTubeにも音源が上がってるのですね。
お坊さんの澄んだ声って心地よくて結構好きです。意味は分かりませんが、聞いていると落ち着く気がします。
(お坊さんって、みんなイケボだと思う。)
法華経は聖徳太子な頃からあったのですが、基本的には読み書きができる貴族のものでした。
命のやり取りをする武士や、字が読めない農民の方たちでも、唱えるだけで極楽にいけるという南無阿弥陀仏が流行り、そこに便乗する形で、南無妙法蓮華経を唱えましょう!と言ったのが日蓮さん…だったのかな?
そうえいば、うちの末っ子ちゃんは般若心経唱えられるのです。
2019年の秋に亡くなった、彼女のひーおばーちゃん(私の祖母)に教えてもらっていました。なかなか粋な小学生ですww
お隣にあった看板によると、石橋供養塔というものらしく、橋の安全と人々の交通安全を目的として建てられているらしいですね。
今度からジテツウで横を通るときに、そっと交通安全をお願いしてみることにします。
呑川を渡り、洗足池までは丘を一つ越えるのですが、登り切って下る途中にまた供養塔が現れます。
(こんなのも全然知らなかったよ…。九品って書いてある…?)
なるほど、中原街道からここを分岐して、浄真寺まで行けたのですね。
今は数十メートルで行き止まりになっていますが、こんな感じで等々力通りあたりにぶつかったのてしょうか〜?
(本持ちさんいわく、古道の道しるべをみつけながら、今の地図もみながら、当時の生活を想像するのが楽しいらしい( *´꒳`*)妄想…♡)
(この辺が洗足池のほとりと繋がってたのかな~? ん~?)
洗足池です。
昨今の事情より、スワンボートはお休みですが(乗りたかったのにショック…(ぉぃww))お散歩を楽しむ方々がたくさんいらっしゃってました。何度来てもいいところですね。
洗足八幡神社ですね。
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源頼朝旗揚げの地との伝承があり、「旗挙げ八幡」とも称された。
『平家物語』に登場する名馬・池月伝説の由来も伝わっている。
(以下のブログより抜粋)
jinjamemo.com
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(なるほど。なるほど???)
境内にお馬ちゃんの像があることは知っていましたが、彼の名前は「池月」だったのですね。
(ふむふむ)
青き毛並みに白き斑点 。カッコイイですね。
ちなみに、現在の馬の毛並みは、
①鹿毛(かげ)
②黒鹿毛(くろかげ)
③青鹿毛(あおかげ)
④青毛(あおげ)
⑤栗毛(くりげ)
⑥栃栗毛(とちくりげ)
⑦芦毛(あしげ)
⑧白毛(しろげ)
とあるらしく、池月さんの色は、③か④になるのかしら。
(でも黒にしか見えないな…。←競馬のHPみてる。)
⑦の芦毛は、元々の色は栗毛、鹿毛、青毛なのですが、被毛に白い毛が混ざっており、歳を重ねるごとに白くなっていき、最終的に純白になる…らしい。
もしかしたら、池月さんの毛並みの色は、艶感のある黒に白い斑点のイメージだったのかもしれません?
西郷隆盛留魂碑。
勝海舟ご夫妻のお墓。
2019年にオープンした勝海舟記念館(この日は閉まってました)
さてここで、有名人の名前が2人出てきましたね。
私の歴史知識レベルだと、幕末~明治維新あたりひとたち…で、まぁ学生時代に覚えた単語はちらほら思い浮かびますが、うん。なんだっけ??
西郷さんはそのあと戦死しちゃったのですっけ…?
(なんでこんなところにお墓があるんだ…しかも隣同士だし…この2人は相当仲良しだったの?)
だめだ…Googleせんせ~…!!
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勝海舟
10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。(Wikipediaより抜粋)
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(↑とりあえず、このページはさらっと読んだ。)
〔豆知識〕
墨田区両国生まれで犬嫌い。日本の歴史に貢献したあとは、77歳の冬のお風呂上がりにおトイレにたった時に、倒れて亡くなったらしい。最後に口にしたものはブランデー。最期の言葉は「コレデオシマイ」。
(あー冬場の血圧の上下はやっぱりだめですよね。でも、最後にブランデーを飲んで亡くなるなんてカッコイイな。)
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墓は海舟の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。
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これか、あったあった。赤坂に住みながら執筆などをし、洗足池は別邸だったのですね。西郷さんは…と。
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薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
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〔豆知識〕
180㎝/116㎏。たばこは吸うけど、お酒は苦手。若いときに喧嘩の仲裁で怪我をして刀が握れなくなってしまったので沢山勉強した。ぽっちゃりした女の人がスキ。豚肉の野菜炒めもスキ。カルカン饅頭は大好き。親切で優しく、人間としての器も大きく、敵からも好かれる方だった。
(カルカン饅頭ってなんだろう?と思ったら、上新粉と長芋のお饅頭なんですって。おいしそう~。写真は明石家さんのカルカン饅頭。)
で、結局なんで勝海舟のお墓のお隣に、西郷さんの留魂碑があったかというと、明治維新の後、勝海舟が洗足池のほとりに移り住んでからも、西郷隆盛があそびにきていたらしいのですね。江戸城無血開城をともに行った仲間として、日本の将来を作る仲間として、尊敬しあってたのでしょうね。
西郷さんが、49歳の時に城山の戦いで亡くなった後、勝さんが西郷さんを偲んで留魂碑をこの地に建てたのですって。洗足池の良い雰囲気を天国の西郷さんにも感じてほしかったのかな。西郷さんの本当のお墓は、生まれ故郷の鹿児島にあるみたいです。
さて。
品川道の2回目はここでおしまい。
次は大井まで行きたいと思っています。
その3へ続く。
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