古道:古代東海道(皇居から浅草)その1
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古代東海道さんぽ。
— まほ (@maho_s_25257) 2020年10月17日
大手町から浅草へ。 pic.twitter.com/ICTJOzpFW4
2020年9月22日(祝火)晴れ
久しぶりのお散歩です♪
3回のお散歩で、多摩川から皇居まできました。
今回は、皇居から浅草方面へ歩きます。
なんか段々と繋がってきた感ありますね!
P.96 あたりのおさんぽです。
ジテツウでもここを遠目に見ながらシェアサイクルで走るのですが、いつ来てもキレイですね。
皇居、馬場先門です。
見切り発車して、ちょっと早くお家をでてきたので、芝生で座って、本を読みながら、今日のルートの予習をします。
芝生は家族連れがたのしそうに涼んでいました。
本持さんと合流して、お散歩スタートです♪
前日に久々に長く走っちゃったので(東京:神戸岩(檜原村))、少し足が重たいな。
お散歩の途中でも「元気ないね?」「疲れてる?」とご心配頂いちゃいました。
気持ちは元気なのですが、表情には少し疲れが出ていたかもしれません。
元気ですよ!!(若かりし頃の回復力は、いずこ!!)
内堀通りからみた東京駅です。
すこーしだけ、イチョウが色づいてきたようにも見えます。
銀杏がたわわに実っているのも見えます。秋ですね♪
あ、最初の皇居の看板をスッ飛ばしましたが、皇居は別枠できっと行くと思うので、その時にでも触れましょうか。
古代東海道をおさんぽ!
将門の首塚の前を通ります。
(ん?カエル??)
大手町のビルの中に、どーんと首塚がありました。
毎日そばを通っていますが、こんなところに…あるとは…。
看板がたくさんあったので、ちょっとそのまま看板シリーズをお楽しみください。
かの有名な平将門さんですね。昔すぎて名前くらいしか知りませんね…(私だけ?)
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平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。
平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。
下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。
しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。
死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。
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桓武天皇がひひひひおじーちゃん。
38歳で殺されちゃったんですって。
戦のシーンは、このへんかな?
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急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。(島広山石井営所跡 私鉄守谷・野田市駅からバス国王神社向い)
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古く確実な例が、この将門である。
この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。
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おでこに矢…いててて。
晒し首になったのですね…この首がですね…!
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戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、首級は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされました。しかし、無念やるかたない首は腐りもせず目を見開き、「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」 と、夜な夜な叫んだと云われています。(ここから)
3日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島軍芝崎(東京都千代田区)に落ちた。台地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。(中略)この地の守護神になったという。
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首が叫び飛ぶ…それは恐怖すぎるわ…。
ところで、将門さんは神田明神に祀られているのですが、なぜお墓がここに残っているのでしょう??
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一件落着となった将門の乱でしたが、将門のすさまじい怨念は後世まで続きます。
最初の不可思議な現象は、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建の時です。首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か2年の間に、大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなり、それ以外にも多くの怪我人・病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されました。
次は戦後になり米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止しています。
更に昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚に面した行員が次々に病気になる事態が発生し、お祓いしたという話もあります。
これ以外にも将門の祟りは枚挙に暇がなく、現在でも隣接するビルは首塚に尻を向けないようにフロアレイアウトされていたり、首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けないなどの配慮がされていると云ったことが実しやかに囁かれており、1000年以上経過した現代でも、その怨念を気にしています。
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大蔵大臣も死んじゃったの…。ひぇっ。
周りのビル(多分新しいビルが建っていたような…?)そんな作りだったかな? 今度前を通った時に気にしてみてみようかと思います。
(後日追記)
周りのビルこみで写メってきましたっ
右のビルは2020年7月にできたばかりのOTEMACHI ONEですね。
ホントだ。将門塚に背を向けないようなレイアウトになってますね
(将門さん、すご〜)
※追記ここまで
そいえば看板シリーズの中に、将門塚は酒井さん家の中庭だったったって書いてありましたね?
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酒井雅楽頭
酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩の第4代藩主。雅楽頭系酒井家9代。第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。
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ほぅ。
将門さんの記述はないですが、この方ですかね?
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非常に早口な人物であり、落書「百物頭」や「中村雑記」などに、「早言の頭」「早口なる人」と記述されている。
第四子以外の全ての子女は正妻の子供であり、尚且つ唯一正妻の子でない第四子も最初の妻と死別後再婚前の独身時代の子供である。歴史作家の海音寺潮五郎はこの点を指摘して、家庭内では律儀な愛妻家であったのではないかと推察している。
綱吉が将軍に就任すると大老を解任され、越後騒動の再審が進められる中、忠清は解任からわずか1年後に突如没した(略)
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早口の愛妻家♡
と、脱線してみましたが、あんまり興味がわかないので、次行きましょう。
将門さんで盛りすぎましたww
ちなみに、成田山は将門の乱鎮圧の際に朝廷から怨敵退治の祈祷を命じた諸社諸寺であるため、神田明神や筑土神社の氏子などは、成田山に参拝すると将門の加護が受けられないという伝承があるらしいですよ。
あ、もういっこ。
将門塚にカエルがたくさんあった理由! これ気になってたんですよ。
胴体を求めて飛んできた伝説から「無事にカエル」という意味があるそうです。
(帰るっていうか…胴体までたどりついてないじゃん? とか思っちゃったのは内緒です( '-' )
大手町という場所柄、現代では拡大解釈され、
「首塚だけにこれ以上クビを斬られない」
「左遷されても舞い戻られた将門様に願かけすれば栄転して戻ってこれる」
「首を守る神様」
「海外赴任をするときに無事にカエル」
「地方に転勤になっても栄転して東京にカエル」
など縁起担ぎのパワースポットとなっているそうですよ。
「パワーが強く、不敬なことを嫌う将門様なので、軽い気持ちでのお参りは絶対に進めません」とのことなので、お願いするときは礼儀正しくきちっとお願いしましょうね。
さて、将門塚を出て新日本橋方面に歩いていきます。
JR新日本橋駅の4番出口を出たすぐのところに、こんな看板が立っています。
長崎屋跡
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(薬種商)
江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。
(旅宿として)
この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた。カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の1つとなっていた。身分は町人であるため江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった。
カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、最上徳内、高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている。
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その北斎の絵が、看板に描かれている絵なのですね。
他にも、輸入蘭書の販売や、西洋銃の入札払いもしていたそうで、結構手広く商売していたのですね。
それだけ手広くやってたのだから、今も何かしらの形で会社が残っているのかと思ったら、長崎屋の歴史は徳川家の歴史とともにあり、その滅亡とともにその歴史を終えたらしいのです。
あらら。
常盤橋です。ですが…工事中です。
東日本大震災で崩れかかってしまったのですね。
ほぅ。石と石の間に隙間が空いている写真とかもありました。
8cm?何センチだっけ? なかなか盛大にズレちゃったみたいです(適当)
ん~~どこかから橋見えないかな~~と思ったら、見えました!
おぉっ!! めっちゃキレイになってる!!
もう少しそばで見るとこんな感じでした。白いの大理石?
これは結構出来上がっているのでは??
もうすぐ通れそうな雰囲気です。
そして、(上に高速がなければ)いい雰囲気なのではないでしょうか~♪
本に書いてあった見どころだという、江戸時代の石垣はそのまま残っていました。
開通が楽しみですね。
渋沢栄一です。
(ん~だれだっけ? 次の1万円札の人…! 実業家??政治家??)
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日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一の銅像は、日本橋川沿いにある常盤橋公園にある。
戦争による金属回収で一度は撤去されたが、昭和30年に再建された。
渋沢栄一は、日本初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ)や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上の設立に関与した大実業家でした。
22歳で江戸へ出て、お玉ヶ池にあった玄武館で剣術修行をしている。また、神田小川町裏神保小道に住んでいたこともあった。
スポット(渋沢栄一像)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda
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お玉ヶ池! この後出てきますよ。
玄武館があったのですね。埼玉県の生まれですが、このあたりに住んでいたこともあったみたいですね。
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【碑文】
青淵澁澤榮一翁は 天保11年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり 後轉じて幕臣となって 慶應3年歐州に赴き 民主主義自由主義を知る機會を得た 歸朝後大蔵省に任官して諸制度の改革に當ったが 明治6年退官し 同年創立された第一國立銀行の頭取となり 爾来産業経濟の指導育成に任じ關與した會社五百 常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實踐し我が國運の發展に偉大な貢獻をした
また 東京市養育院等社會事業の助成 一橋大學日本女子大學等實業及び女子教育の育成 協調會等による勞資の協調 日華日米親善等世界平和の促進 道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し 昭和6年11月11日に逝去した
翁の歿後 財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が 昭和8年此処に銅像を建立したが 第二次世界大戦中金属供出のために撤去された 然るにこのたび 銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって 再び朝倉文夫氏に製作を委嘱し 舊位置にこの銅像を建て 東京都に寄附したのである
昭和30年11月
澁澤青淵記念財団龍門社
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碑文は、文体が難しい…。
みずほ銀行、JR東日本、帝国ホテル、東京海上日動、東急電鉄、東京ガス、東京証券取引所、日本郵船などなどたくさんの会社の設立にかかわったそう。
(すご~~)
なんて思ってたら、お向かいさんが日銀です。
(日銀…? ってこんなんでしたっけ…?)
イメージの日銀って(高速からばかりみてるから…かな?)
こういう~ あれ?「円」に見える?
そそ、こういう~~~感じ?だったのですが、地上から見るとイメージと少し違うのですね。
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日銀本店が着工されたのは明治24年(1891年)。このとき紙幣で使用していた文字は「円」でなく旧字体の「圓」。この表記は戦後の昭和21年(1946年)に新字体の「円」になるまで変わっていません。そこで屋根の形は、意識的に設計したものではなく、「偶然の造形」というのが大方の意見のようです。
天空から2 日銀本店を上から見れば | フォーラムミカサ エコ
設計者は明治建築界の重鎮で、中央停車場(東京駅)、万世橋駅等、全国に数々の名作を残した、近代建築の父といわれたあの辰野金吾氏。
日銀本店の屋根の造形も、円という略字の固定化が今後決定的になってくるという読み、後に日銀本店よりも高い建物がどんどん出来てきて屋根の形が人々の目に触れるという建築家としての判断から、将来世間を驚かせてみようという辰野氏の仕掛けという気がします。
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円なのかな? どうなのかな?
今となっては真相はわからないのですね。
目の前の貨幣博物館に寄ろうか?と一瞬話がでたのですが、浅草につかないので、今回はスルーです。
また今度行ってみたいですね。
7世紀後半からお金っていう概念があったのですね。
いつだか、日銀の子供向けのHPを見たときに(あれ?とおもったら、「にちぎん☆キッズ」は2020年8月で提供終了しちゃったのですね)、
「おかねは、みんなが価値のあるものだと信じてないとお金として通用しないんだよ」
みたいなこと書いてあって、当たり前のことなのですが、結構衝撃でした。
さて、日銀を出て、また少し歩いていくと歩道に…
石‥‥(笑) なんだこれはw
長くなってしまったので(将門さんが長かった…w)
続きは次回にしますね。
古道:古代東海道(皇居から浅草)その2 へ、つづく。