東京:新宿御苑さんぽ
2020年6月12日(金) 晴れ
新宿御苑があいたので、お散歩してきました。
開いてないときにお外をぐるっと回ったのはこちら。
ぁ、今回は御苑の中に入りましたが、全然聖地巡りはしてません。
ただのお散歩です♪
新宿門から入りました。
っと、その前に。
手前の新宿高校にあるコレが、ずっと気になっていたのです。
前を通りかかると、ちょうど生徒さんが出入りするタイミングだったみたいで、先生が校門のところに立っていました。
校内に立ち入る許可をいただき「あさひばし」を見学します。
歩道から見える看板、外から見ると反対向きに設置されているので、なんて書いてあるんだろうね?なんて前に通った時に話していたのです。
念願の表面…だったのですが…。
よめる…!? かな!???
頑張って読んでみるかな…??
石樋
1603年(慶長八年)に、徳川幕府が江戸に開かれてい以来、人口の急激な増加が見られ市街の発展につれて飲料水の不足をきたした。そこで1652年(承応元年)多摩川上水開設の計画が立案され、翌年より町人庄右衛門・清右衛門兄弟によって着工された。上水路は一年足らずで開削・通水に成功し、1654年(承応3年)に竣工した。玉川上水は、多摩郡羽村(現、羽村市)の堰(せき)から多摩川の水を取り入れ四谷大木戸(現、新宿区四谷4丁目交差点)まで焼く43kmの開削水路である。大木戸のわきには水番屋(新宿区内藤待ち87番地)がおかれ、水量の調節などがされた。その後、上水は地下に潜り、石樋や木樋で城下に分配された。上水は地図にあるように新宿高校の北側の甲州街道沿いに流れていて、ホタルや桜の名所であった。現在、新宿高校に保管されている石樋は、甲州街道と青梅街道の分かれ道である追分一帯の雨水など下水を新宿御苑内の池へ落とすために上水の上に架設されたものである。もとは木樋であったが。1795年(寛政7年)に長さ1間(訳3.6m)幅、3尺5寸(訳1m)、高さ3尺(訳90㎝)の石樋にした。上水の水質保護のために機能した石樋から、下水は新宿御苑に沿って掘られた下水溝を通って、千駄ヶ谷方面へ流れていく。昔大雨や豪雨委の時は排水が間に合わず、土地の低い天龍寺の裏当たりから出水し、旭町(現、新宿4丁目)一帯は水浸しになった。明治年間に流行したコレラなど伝染病予防のために、近代水道の建設が完了し、明治30年代初頭には淀橋上水工場や鉄管水道の敷設が完了し、1899年(明治32年)には上水による市内への給水を廃止した。1925年(大正14年)からこの付近の上水路を暗渠にする工事が行われ、昭和初年ころにこの石樋も撤去されたと考えられる。
(だそうですよ。)
地図が見えるものがこちらのサイトにあったので、拝借。
あさひばしに寄り道したお話でした。
それでは話を御苑さんぽにもどしますね。
とりあえず、お昼時だったので、ランチです♪
新宿門から入って少し歩いたところにある、カフェはなのきさんでいただきました。
「内藤とうがらしホットドッグ」
新宿御苑のルーツである江戸時代の高遠藩主内藤家の屋敷地の菜園で栽培が始まった伝統野菜「内藤とうがらし」をソーセージにしました。福島県産野菜の風味豊かなドライカレーソースとマッチした、スパイシーなホットドッグです。(HPより)
チョリソーと葉っぱの下に、カレーソースが敷いてあります。
結構辛いチョリソーだったのが印象的でした。おいしかった♪
前回外から御苑を見てまわって、やっぱりバラの時期かな?とおもったので、一番奥のフランス式整形庭園まで行きたいなー??と、なんとなく奥のほうに歩いていきます。
旧御涼亭からの景色です。
木陰をのんびり歩いていくと、ツツジ山で咲き遅れたツツジを見ることができました。
だれかがお花でハートをつくったあとが♡
そうか、この日は「恋人の日」でしたね。
ほっこりしました♪
(⁎˃ᴗ˂⁎)♡
さて、ハートも良いのですが、渋谷川の源流が暗渠になるポイントも大事ですね(?)
この奥から新宿御苑を出て、地下を通っていくのですね。
整形式庭園です。
バラがたくさん咲いてました。
再びの暗渠…! この先もきっと渋谷川ですかね。
バードウォッチングの方がいて、どうやら新宿御苑にオオタカがでるらしく、それを狙っているとのこと。
都心にタカがでたら話題になりますね。
玉藻池です。
マスクを取る練習もしていかないとですね。
あまりにもついていることが当たり前になってしまって、外すことを忘れてしまいます。
いいお天気♪
少しヒールのついているサンダルを履いていたので、芝のところは脱いで歩きます。
ちくちく、ふわふわで気持ちいい♪
スタバあるということで偵察。
中の池を眺めながらコーヒーが飲めます。
でも、御苑の中では、こういうほうに惹かれてしまいます。
おだんご(⁎˃ᴗ˂⁎)♪
本山茶ノンアルコールビール(笑)
お茶の苦みとビールの苦みがマッチしていて、暑い時期にぴったりです。
おだんごも柔らかめでおいしかったです♪
おだんごのデザートに(?)小豆島オリーブサイダーと信玄餅クレープもいただきます。
琵琶もたくさんなっていて初夏っぽい。
お天気も良く、御苑もまだ人がそんなにいなくて快適に過ごせました。
楽しくおいしいお散歩でした♪
次はどこに行こうかな?
東京:神宮外苑から五日市駅のCANVASパフェ
2020年6月5日(金)晴れ 西風~南風
ひさびさのお外ライドです♪
3月にお外にでたのが最後だったので、2か月以上ぶりですね。
お外乗れないのは結構慣れっこなので、まぁ良いのですが、やはりこう制約がある中で乗ろうと思うと、気持ち的にめんどくさくなってしまったりもしますが、今回は、正真正銘のポタに行こうというお話をいただいたので、「はい♪」とお返事。
でもね、ほんとは海が見たいの…スレスレで都民なので、まだ神奈川や千葉には遊びに行かないですが、そのうち待っててね、青い海!!!
もうポタの前日からルンルン♪
サイクルジャージを着る気はなかったので、普段着&スニーカーかな。
100kmくらいなら大丈夫だろう♪
自転車はミニベロかトレックで、トレックだったらホイールはゾンダを履いていこうと心に決めていました。
ジテツウホイールは、前R500・後RS100なんだもの。かわいくないでしょ。
OPERAさんのホリゾンタル具合がかっこいいですね!自転車ピカピカで、大切されてるんだなって思いました。見習わねば…(汗)
お互いのお家の位置関係から、神宮外苑で待ち合わせをしました。神宮外苑も久しぶりだな♪
ゾンダさんコーデ!
いい(⁎˃ᴗ˂⁎)♡
トレックのレディースモデルも最高にカワイイ!!
自己満足した(*ˊᗜˋ*)w𐤔
五輪マークによったりしながら西に向かいます。
どんどん橋
玉川上水脇をのぼっていきます。
安全でのんびりしてて良い道です♪
原っぱで小休止。
途中、休憩しようか?と古民家によります。
ここがまたすごいイイ!!
涼む背中。
左の物体は火鉢!(ついてないけど)
縁側で、ほけーとします。
そして補給を持ってないことに気が付きます(¯∇¯٥)
まさか都心で食べ物のないところで休憩するとは…!
まぁいいか、なんとかなるだろ??
(ダメそうならコンビニ寄ってもらおう。)
火のついてる囲炉裏!
吹き抜ける風♪
こんな休憩場所もありなのですね。
通り道だから〜と酒屋さんにもよりました。なかなか趣があって素敵♪
とりあえず道にすごい詳しい方で、終始感心しきりでした。
単走ばかりだとおっしゃっていたので、そのつもりでいたのですが、走り方は、ハンドサインやトルクのかけ方含めとても上手で、思わぬ誤算。楽させてもらっちゃいました♪ ありがたい〜(⁎˃ᴗ˂⁎)♡
そんなこんなしてたら、目的の五日市駅のキャンバスカフェについてしまいました。
いくらゆっくりとはいえ、ここまで私は70km.
お腹すきました!
キャンバスのランチセット。
キャンバスパフェ!
紅茶をベースにした味付けでそこにはマンゴー!!とても美味しい♡♡♡
これが食べたかったの♡
登ってないのにこんな食べちゃって大丈夫かな…と頭をよぎりますが、よきよき(⁎˃ᴗ˂⁎)
帰りはタマサイをルンルン♪
何人かお友達とも会えました。
OPERAの方とは矢野口あたりで別れて各々帰路に。
ありがとうごいました(⁎˃ᴗ˂⁎)!
久しぶりのお外でしたし、お天気もよく(終始向かい風で)とても楽しかったです♪
120kmくらいかな。
いいつつ、ストラバちょっと高めに出てますが、そんな楽ではなかったのよ。
ブライトンだと心拍AVG156でした。
次はどこに行こうかな?
しばらくは都内開拓で*ᴗ ᴗ)⁾⁾
古道:古代東海道(大井町〜芝)
2020年5月29日(金)晴れ
車の通れない不思議な踏切、品川道踏切を出発!
道なりに行くと、品川寺のほうに行ってしまうらしく、なるべく北方面に歩き、居木橋を目指します。
イメージでいうと、大井町駅を背にして、北東ではなく、真北に向かう感じ。
線路沿い、桜並木の細い小道を歩いていたら、居木橋です。
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居木橋(いるきばし)
現在の環状6号線は、室町時代以前のころから、品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿からちょうど1kmのこのあたりで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆら揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えると、もう品川宿も近いと思ったことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この「ゆるぎの松」が「時の流れとともに変化し、「いるきの松」と呼ばれ、ここにかかるい居木橋の名前の由来となったといわれています。当時の旅人にも親しまれた「居木の松」も安政年間に暴風雨で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが、現在の森永橋の付近にあったと伝えられています。
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と、近くの看板に書いてありました。
(ほぅ。)
長い時間歩いて旅をして、宿まであとちょっと! という目印の木が見えた瞬間はうれしかったでしょうね。
ヒルクライムしてて、頂上まであと1km看板が見えた気分でしょうか(違ww)
五反田~品川あたりなので、大きい通りにはなじみがありますが、ほぼほぼ普通では通りえない、住宅街をずんずん歩いていきます。
二本榎通りは何度か品川周辺あたりは、走ったことがあるので、
(あー…! 角にケーキ屋さんがあるところだ♡)
とか思いつつ、まぁこの気温じゃ持ち帰れもしないので、スルーなのですが…。
しばらく歩いていくと、
消防署が見えます。
高輪消防署二本榎出張所です。
立派ですね~!
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二本榎の由来。
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い 丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪何丁目などと他名は変わりましたが、「榎」は幾度となく新植・移植が行われ、町の大切な象徴になっております。
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と、そこある看板に書いてありましたw
エノキさん…枯れたんじゃなかったのか?? ふむ。ふむ??
居木橋の時もそうでしたが、宿に行く目印には遠くからでも見えるように木を植えたのですね。
唐突ですが、
「おなか減ったね!」
ってことで、イイ感じのサンドイッチ屋さんで軽食にします。
ここのそばの公園でいただきました♪
更に北上すると、承教寺(じょうきょうじ)があります。
(ぬーん)
なんじゃこりゃ…。いやぁ…。
狛犬らしいのですが、ちょっとなんかこーいろいろイメージからかけ離れてます。
ちょっと調べて見ると、
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承教寺山門前にに狛犬に似て、狛犬ともちがう石造の動物の置物があります。
これは、「件(くだん)」と言います。「件」の文字通り、半人半牛の姿をした怪物です。
幕末頃の伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされています。生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされています。
この置物は、承教寺の檀家の方が寄進したものだそうです。
承教寺(高輪散歩6) : 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録
より抜粋。
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牛から生まれ、人の言葉を話すって…ビックリすぎますね。
ってもうすでに「犬」じゃないじゃん…?ww
(*ˊᗜˋ*)w𐤔
えーっと、承教寺には…
誰かのお墓があるらしいですね(読んでないwww)
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英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(いさぶろう)、次右衛門(じえもん)、助之進(すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。剃髪後に多賀朝湖(たが ちょうこ)と名乗るようになった。俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)。
名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。なお、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。
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ダメだ…! 漢字が多すぎます。
改名しすぎ〜!
お好きな方は読んでみてください。
ちなみに、この方、島流しにあったらしいのですが(原因は諸説あり)
その、説のひとつに、「釣りの罪」とあり、
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町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、綱吉政権が発令した生類憐れみの令違反とされた(同年、追加条例として“釣り具の販売禁止令”すらも出ている)。
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生類憐れみの令違反ですってよ。社会で習ったよね。
(なにこれ?へんなワガママ法律~?)
とか学生時代の私は思っていましたが、これの違反が原因で島流しにあった人がいたとは…
そしてこの方、島流された先の島でも釣りをしていたらしいです。いやはや。
承教寺をでてしばらく歩くと反対側に石碑が現れます。というかよく見てないと見過ごします。マンションの看板かと思った…!
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんですね。
ここ(細川邸跡)でなくなったらしいのです。
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大石 良雄(おおいし よしお/よしたか 万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し(寺坂信行を除く)、公儀の裁きに処分を委ねた。翌16年、幕府の処断により四十六士は切腹となった[1](赤穂事件)。
良雄は諱で、通称(仮名)は内蔵助。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。
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切腹の話はこのあたり。
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仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。
元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主・吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、良雄と面識がある幕府目付・荒木政羽であった。良雄は細川家家臣・安場一平の介錯で切腹した。享年45。亡骸は主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士。
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ぁ、高輪の泉岳寺にお墓があるのですね。
話は飛んで、伊皿子坂との交差点に「歯科医学教育発祥の地」碑があります。
野口英世さんも教壇に立ったのですって!
今の東京歯科大ですね。
水道橋の駅から見えるところにありますね。
あのあたり桜がキレイなので、何度かお散歩で行ったことがあります。
さて、道的には公園にこのあと行くのですが、はなしは、とってもとってもさかのぼり、縄文時代です。
伊皿子貝塚遺跡です。
公園の中に、どーんと弥生時代のおうちが建っています。貝塚の説明もありました。
そこからまた少し歩くと、亀塚公園です。
亀塚という小高い部分があり、古墳ともいわれているようですが、古墳じゃないかもって書いてありますね(笑)
この、亀山の頂上に碑があります。
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亀山碑。
亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼煕によって寛延三年(1750年)に建てられたものです。土岐家は、明暦三年(1657年)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文に秀でた大名といわれた頼煕は、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の故地であることや、 塚の頂部に酒壺があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるために、この碑を建立したと考えられています。大名が邸内に建立した石碑として貴重なものです。
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(酒壺?? 亀?? どっからでてきた…
そういうこと考えちゃいけないのか。)
亀塚公園の裏に長〜い階段があり、降りていくと、御田八満神社があります。
あの後ろの山の上が公園ですね。
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御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は、日本の東京都港区三田にある神社である。
誉田別尊命(ほんだわけのみこと、八幡神)を主祭神とし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)を配祀とする。
海側斜面に位置する。江戸時代には直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開け、さぞかし風光明媚であったと考えられる。明治40年代芝浦の埋め立てが始まりその面影を失うことになる。周囲の木々の剪定は最低限にとどめられ、あたり一面薄暗く蕭蕭とした雰囲気を漂わせている。裏手の高台には亀塚公園が隣接する。
平成21年には鎮祀1300年記念として、8月1日に式年例祭が、2日には御神輿渡御が斎行された。
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1300年〜! 江戸時代には直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開け…。ほ~。高台なので、相当きれいに海が見えたでしょうね。歴史ある神社なのでしょうね。
ちなみに亀塚との高低差は、他の方の記録によると、高低差が20.4メートル、段数は136段、傾斜23度らしいです。階段の途中にベンチが備え付けてありました。
これお年寄りは一気に登れないよねぇ…。
私も息も絶え…絶え…階段を登り、亀塚に戻ってきましたw
亀塚公園内の地図の前でちょっと小休止。
更級日記ね~この公園内、良く出てきますね~…なんだっけそれ…。
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『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)は、平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。作者13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。
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東の国・上総の国府に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、寛仁4年(1020年)9月に上総から京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆する。『源氏物語』を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。
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菅原孝標女さんの人生の日記なのですね。なるほど。
亀塚公園を離れ、数十メートル…次のチェックポイントです!
「最初のフランス公使宿館跡」
済海寺にはフランス公使館があったのですね。
ここまで来たら、あとは聖坂を下って…東京タワーが見えるはず!!
この聖坂、ジテツウでたまに都心方面から登ってくるのですが、真っすぐでキツイ…!!
ストラバのセグメントでは、200m/6.9%らしいです。
っと、坂をくだる前に、左側に亀塚神社があります。
板碑ですね。うすっぺら~い!(感想もうすっぺら〜い!)
港区に現存する板碑では最古だそうです。
聖坂をくだり、一国の通りにでます。
東京タワーが見える通りを歩いていくと、春日神社ですね。
この辺、慶応大学のお膝元なので、歩いている人みんな賢く見えます(笑)
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春日神社
天徳二年(958年)武蔵国国司藤原正房卿任国の折、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国春日社第三殿に祀る天児屋根命の御神霊を勧請鎮座。
当時、武蔵国荏原三田邑にあって土地の人びとより大いに崇敬され、その後建仁3年(1203年)仏教の隆盛に伴い、当社にも十一面観音(弘法大師作)の尊像を安置、神仏相まって繁栄し神徳四辺に輝き渡ったと伝える。
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由緒ある神社なのですね、
しかし、社務所の受付時間が日没までって…笑。
社務所に御用のある方、日没の時間を調べていってくださいね。
そそ、ここで、通りすがりの看板…旧町名由来板めぐり。
18…。少なくとも港区(?)に18枚以上あるみたいですね。
たまたま見つけたこれは…
三田・赤羽町・三田功運町の由来が書いてありました。
赤羽の由来なんかは面白いですね。
増上寺の横の坂は土器坂(かわらけさか)というのですが、由来はこのあたりなのがわかります。
今日のゴールが見えてきました。
東京タワー!
いつ見てもイイですね。
芝公園からの東京タワーです。バラが咲いていてとても素敵な空間です。
時々お散歩で立ち寄るスポットです。
この日も多くの子供連れや、ワンちゃんの散歩をしている方がいました。
きっとテレワークをしている、パソコン持った海外の方もいましたw
一国のクランクのところにある、大阪屋さんのアマビエさんを頂きます。
ジテツウでほぼ毎日前を通っていますが、立ち寄ったのは初めてでした。
だいぶ日が傾いてきました。
芝公園は増上寺の隣(昔は増上寺の敷地だったらしい)とてもきれいな芝生の公園ですが、実はここ、古墳なのです。しかもかなり大きい!
古墳の頂上です。
伊能忠敬の碑があります。
突然どうした!?って感じなのですが、
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伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てました。明治22年に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されましたが、戦災で失われたため、昭和40年に現在のものが再建されました。
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ってことらしいです。測量の起点ね~なるほど。
反対側から登ってきてしまいましたが、古墳の入り口ですね。
貝塚もあったらしいのです。
本日2つ目の貝塚。わずかですが土器も一緒に出土したみたいですね。
(トラ? とら…?? と……??)
昭和38年6月調理師法施行5周年にあたって、長年調理師会の名誉会長として尽力した政治家大野伴睦の労に謝するため贈呈されたものです。(上のサイトより)
調理師法施行…トラ…。ん。わからん。
芝丸山古墳
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芝丸山古墳(しばまるやまこふん)は、東京都港区芝公園にある古墳。形状は前方後円墳。東京都指定史跡に指定されている。
芝公園が所在する標高約16メートルの台地先端部に位置し、前方部を南南西に向ける前方後円墳である。
築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。
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都内最大級~!
小高い丘になっていて、お散歩には最適な場所ですね♪
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当宮「芝東照宮(しばとうしょうぐう)」は、当初、増上寺内境内に勧請された。増上寺は天正十八年(一五九〇)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められた。
当時は日比谷にあったが、慶長三年(一五九八)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転した。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持った。
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ほぅ~…。
天然記念物らしい!
HPによると、
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神木の大イチョウ
寛永八年(一六四一)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられる。
昭和五年(一九三〇)史跡名勝天然記念物保存法に基づいて、国の天然記念物に指定されたが、昭和二十七年の文化財保護法の改正の時、国指定は一旦解除、昭和三十一年に東京都の文化財保護条例に基づき「天然記念物」に指定し直され現在に至っている。
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家光さんが植えたの? ほんとに??
1641年…? 今2020年だから、樹齢380年…すご~!
都内のど真ん中にこんなのがあるんですね。
読めないので、芝公園に戻ります。
芝公園内の平和の灯です。
ほんとに火がともっています。
増上寺と夕暮れの東京タワー。
夜景も良さそうなスポットですね。
光っている東京タワーは長らく見てないなぁ〜?
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増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。
その後、1470(文明2)年には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。
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浄土宗ですね。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。」とお念仏を唱えることで人々が救われると法然上人が説いたのでしたね。
こんなに人のいない増上寺もなかなかないですね。
鐘楼堂です。
江戸三大名鐘のひとつに数えられ、東日本最大級として知られているそうです。
増上寺を出て、駅まで歩く途中に門が出てきます。
これまたキレイな門ですね。
有章院
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有章院霊廟(ゆうしょういんれいびょう)は、江戸幕府七代将軍徳川家継の霊廟建築。芝増上寺(東京都港区芝公園)に造営された。
建物は豪華な彩色や彫刻で飾られていたが、1945年、太平洋戦争の空襲で大部分が焼失した。
有章院霊廟は増上寺本堂北側の北御霊屋の北半部を占め、東を正面として営まれていた。所在地は現在の港区芝公園、東京プリンスホテルの敷地にあたる。
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だそうで、もともとは、とても広い敷地だったのですね。
この日は芝公園ゴールでしたので、ここで終わりです。
なかなか見どころがたくさんあるお散歩でした♪
今回のルートです。
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次はどこに行こうかな〜??
東京:新宿御苑(外周)
2020年5月17日(日)晴れ
雨の日に、言の葉の庭を見たんです。
新海誠監督の映画で、2013年5月31日公開されました。
キャッチコピーは『”愛”よりも昔、”孤悲”のものがたり』。
3回目くらいなんですけどね。
新緑のこの時期に雨が降ると、衝動的にみたくなります。
この日は快晴。でも長距離をお散歩する時間はなかったので「そうだ新宿御苑に行こう。」と、新宿御苑散歩へ行くことにしました。
映画のメイン舞台は新宿御苑のなかの休憩所で繰り広げられるのですが、今、新宿御苑はお休みですし、映画の中に時折出てくる繁華街方面には行く気ないので、いける範囲での
!!! 言の葉の庭 聖地訪問 !!!
よしっ(๑•ㅂ•)و✧
行ってみましょう~!!!
(と、出たのもつかの間、お地蔵さん、どーーーーん!!!)
御苑よりは少し北側からスタートしたので、ちょっと寄り道。
太宗寺です。
ココには江戸六地蔵のうちの一つがあります。
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江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したもの。(Wikipedia)
番 | 巡拝 | 寺号 | 宗派 | 造立年 | 像高 | 現状 | 街道 | 所在地 | 画像 |
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第1番 | 第1番 | 品川寺 | 真言宗醍醐派 | 1708年(宝永5年) | 2.75m | 現存 | 旧東海道 | 東京都品川区南品川三丁目5-17 | |
第2番 | 第4番 | 東禅寺 | 曹洞宗 | 1710年(宝永7年) | 2.71m | 現存 | 奥州街道 | 東京都台東区東浅草二丁目12-13 | |
第3番 | 第2番 | 太宗寺 | 浄土宗 | 1712年(正徳2年) | 2.67m | 現存 | 甲州街道 | 東京都新宿区新宿二丁目9-2 | |
第4番 | 第3番 | 真性寺 | 真言宗豊山派 | 1714年(正徳4年) | 2.68m | 現存 | 旧中山道 | 東京都豊島区巣鴨三丁目21-21 | |
第5番 | 第5番 | 霊巌寺 | 浄土宗 | 1717年(享保2年) | 2.73m | 現存 | 水戸街道 | 東京都江東区白河一丁目3-32 | |
第6番 | 第6番 | 永代寺 | 高野山真言宗 | 1720年(享保5年) | 不明 | 現存せず | 千葉街道 | 現:東京都江東区富岡一丁目15-1 |
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(げ…げんぞんせず?? 6番目はもうないのか。)
どこが一番大きいのかなと思ったら、みんな2m70cm前後なのですね。大きさもそろえたのかな、当時。
御苑の真ん前にこんな立派なものがあるなんて、驚きです。
(不治の病が治ったのか…! 良かったね~。京都六地蔵が出てきたけど、スルーしておこう。)
内藤新宿太宗寺
(ぇ?ミニ博物館?? そんなのあったかな…閉まってたのかな? また何かの時に。)
塩かけ地蔵があります。
「あります。」とか、書いてますけど、現地では、あまりのお姿にドン引きでしたよ(笑)
比較的、神社仏閣は(さっぱりわからないけど、雰囲気が)好きなので、あれば立ち寄りますが、こんな塩まみれのお地蔵さんを見るのは初めてです。
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塩をいただいて帰ると願いがかなうパワースポットとして有名です。
なお、願いがかなった場合は倍の量の塩をお返しする約束となっています。
「塩地蔵」をみてみると、ほとんど全身塩に埋まっており、大変ご利益があることがうかがえます。
閻魔様や奪衣婆、塩かけ地蔵が有名!新宿・太宗寺(たいそうじ) | むさしの散歩日記。
(抜粋)
〜〜〜
塩かけ地蔵は「東京御利益案内」によるとおできにご利益があると記載されています。塩をもらって帰り患部に塩を塗り込むとおできが治るそう
(抜粋)
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さらっと調べると、こんなお話が出てきました。なるほど、お地蔵さんについているお塩を少し持ち帰り、患部に塗って治った場合は、倍量のお塩をお礼としてお供えする…のが慣習なのですかね。
せっかく立ち寄ったので、内藤正勝のお墓にも手を合わせてきました。
(だれ〜?? Googleせんせ~)
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慶長13年(1608年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の三男として誕生する。清成の死後、内藤家の家督は長男清次が、清次の死後は次男清政が継ぐ。清政の代に安房国勝山に移封され、3万石の大名となっていた。
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(あ、清成さんのお子さんなのね…!(つながった)。清成さん後程出てきます~。)
さて、新宿御苑到着(旧新宿門)です。
今日は言の葉の庭聖地巡りなはずなのですが、歴史的建造物たちに、すっかりペースを乱されていますww
そもそも新宿御苑って「きれいな公園」くらいのイメージしかないのですが、なんでしたっけ…? とおもったら、環境省のHPに載っていました。
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新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。
昭和22年12月、新宿御苑は皇居外苑、京都御苑とともに国民公園として運営される旨が閣議により決定し、昭和24年5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に開放され、昭和25年に厚生省の所管となりました。
その後、昭和46年7月の環境庁の発足にともない、全国の国立公園などとともに所管を環境庁に移しました。そして平成13年1月の省庁再編により環境省に所管を移し、平成18年に「新宿御苑」という名に冠してから100周年を迎え、現在に至っています。
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(内藤さんちから国立公園になるまで…すごいな!)
環境省から四季別のマップが出ていました。
「春・初夏・夏・秋・晩秋・冬」
今回は初夏のマップをひっぱってみました。
ちなみに、中に入るのは有料です。
2019年3月19日より入園料が変更となり、大人は200円から500円に値上げとなりました。学生(高校生以上)の料金が新設され250円。小中学生は50円だったのが無料となったようです(中学生以下が無料という意)。
年間パスポート(1年間)は、一般2000円、高校生1000円。
(ふむ。ちょいちょい行くのだったら年パスのほうがお得かも。)
旧新宿門のおうち。かわいい♡
そこからは御苑の外側を反時計回りに歩いていきます。
新宿御苑、新宿門です。
まぁお休みなんですけどね。入れるようになったら内側も聖地巡りしてみますかね(?)
基本的に混んでるところ嫌いなのでどうですかね??ww
あーあの奥に見える券売機も聖地扱いされてますっ!
(今の券売機やゲートはこのタイプではないらしい)
さて、都立新宿高校(これは聖地なのかな? タカオとユキノの学校の可能性は高いといわれていますが)の横を通り、雷電稲荷神社を横目に、明治通り沿いを歩いていると、再びドーンとしたお寺が現れます。
天龍寺です。
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天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とされる。法泉寺は徳川家康の側室である西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春(戸田忠春とも伝わる)の菩提寺であった。
渋谷川(穏田川)の源流のひとつであり、かつては境内に池があった(2011年現在も地下水が豊富である)
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渋谷川…! この後また出てきます。
明治通りから一本入り、新宿御苑沿いを歩いていくと、新井白石終焉の地が出てきます。
(誰…?)
まぁ、麦畑の中に住むのはステキですね。私、お庭があるおうちに住んだら、玄関先に麦を植えたいんです♪
(これはそんな悠長な話ではないと思うが…( '-' )!)
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新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。(Wikipedia)
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(ほぅ~…。朱子学ってなんやねん…と思って知らべたら、
[朱子学とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。]
って出てきて、余計わからなくなったので、パス。今日は、言の葉の庭の聖地巡りなんだよww)
はい、新宿御苑の千駄ヶ谷門です。ユキノが出入りしている門ですね。
お向かいのバイオリン屋さんがとってもとっても気になりますが、入り口だけ覗いて、たくさんの楽器があるのを、ほわ♡とみて、次に行きます。
わたし、昔バイオリンちょっとだけ弾けたのです。今も復活させたい趣味のひとつに入っているので、まぁそのうちに。
ここのトンネルも聖地のひとつです。
中央線、総武線、首都高4号線をくぐります。
https://twitter.com/knsk_seaweed/status/764006972798611460?s=20
千駄ヶ谷駅、めっちゃきれいになってて、ビックリしました!
供用開始日は、2019年10月27日(日)だったみたいですね。
あぁ、もうひとつ聖地!
タカオのバイト先の中華屋さんです。
「不動産」看板の手前のお店になります。
せっかくなので、鳩森八幡神社も立ち寄ります。
なんか登れそうなところがあると登りたくなってしまうのは、性なのでしょうか。
りっぱな富士塚に登ります。
山頂からの眺め。いいね(⁎˃ᴗ˂⁎)
(7合目に洞窟…? ほう、見なかったな?)
富士塚の入り口はこちら側でした~。裏から登っちゃった。
さて、寄り道も終えたので、言の葉の庭の聖地訪問に戻ります(?)もう聖地出てこないけどもww
(何がメインかわからなくなってきたけど、基本、ただの散歩だし、良いよね??←何の同意(*ˊᗜˋ*)w𐤔)
新宿御苑、洋風庭園側の門。お花がたくさん咲いているのが見えます。バラかな~??
大京町交番前交差点のあたりです。
はぅぁ、また怪しげな石がありますね。「こういうの=あやしい」というのをここ最近学びました。
(トンネル!! あやしい…。)
これ、渋谷川の跡らしいのですよね。
昔の地図で言うと、この橋ですね。
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渋谷川。
明治前半までは、水がきれいで、沿岸では蛍が見られた。かつて徳川将軍に献上された蛍は渋谷川で採取されたという。アユの生息も確認され、水辺にヨシ・ガマの草原が広がり、川沿いには河畔林が形成された。
ja.wikipedia.org
www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp
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むかしはとってもキレイな川だったのですね。
(ホタル、アユ、ヨシ、ガマ、ね。)
そういえば私、イイ歳までガマってものを知らなくて、長女が小学生の時に国語の教科書に「ガマ」が出てきて、子供と一緒になって「ガマって何…?」と言ったのを思い出しました。
こんな看板もありました。
(諸説あり、らしいですね。また今度。)
多武峯(とおのみね)内藤神社です。
(でた、内藤さん…!)
ここには駿馬塚というのが残っています。
読んでみると、結構めっちゃくちゃですが、
内藤清成は、さっきお墓参りした内藤正勝のお父さんですね。(ですよね?)
四谷→千駄ヶ谷→代々木→大久保って…え??
え??ww
まぁいいか。深く考えないようにしておこう。
これあとで古地図を調べたら、今の東新宿あたりをかつては大久保と呼んだらしいですね。
東新宿駅周辺に大久保という地名があります。
このへんなら、まぁ納得??
(お馬ちゃん、がんばりました。拍手!)
そして、隣の滑り台しかない小さな公園に突如として現れる鉛筆の碑。
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1887年 (明治20年)眞崎仁六、「眞崎鉛筆製造所」を東京市四谷区内藤新宿1番地にて創業。
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ほんとだ…ここは三菱鉛筆創業の地なのですね。
(ほぇぇ…なんだか話題が盛沢山すぎです。ご近所に咲くバラがとってもキレイ。
…小休止。)
歩みを進めると、甲州街道と外苑西通りとの交差点に、こんなものもありました。
(ほぅ、広重さんも褒めらえると照れちゃったのね。かわいい。なんでもそうだけど、褒められるとモチベーションになりますよね♪)
四谷区民ホール脇です。
ココには四谷大木戸跡があり、玉川上水のゴール地点でもあるようです。
(あー昔社会で習った気もする…?)
・・・なんとなく、囲われた柵の向こうに、ハンドルのようなものも見えます。
(玉川上水は掘り下げると、ものすっごく深そうなので、今日は触れないww)
新宿御苑に戻ってきました。大木戸門です。
行きは、旧新宿門から入ったので、この看板もチラチラ見ていましたが、一周回って帰ってくると、渋谷川や玉川上水のことが載っています。
(なんとなくリンクしたぞ…!)
新宿御苑の旧新宿門まで戻ってきて、とりあえず新宿御苑の外周を一周したことになりました♪
散歩道にある看板たち。
今回のルートです。
言の葉の庭の聖地も何箇所か見れましたし、新宿にたくさんの立派な歴史的建造物があって驚きました(*´Д`*)
新宿といえば、ハンズ、ビックロ、y's、紀伊国屋、映画館、東郷青児美術館(あ!新しくなってる!上から新宿を見下ろすの好きだった。)に用事があるときくらいしか来たことなかったのでww
(オープンしたら行かなきゃ♪)
とりあえず、今回ちらっと出てきて気になったのは玉川上水です。また何かのときにたどってみたいなと思いました。
次はどこにいこうかな〜(⁎˃ᴗ˂⁎)??
古道︰池上道(沼部~大井町)その3
その2からの続きです。
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春日神社の御本殿には、天児屋根神(あめのこやねのかみ)・建御賀豆智神(たけみかづちのかみ)・伊波比主神(いわいぬしのかみ)という三柱の神様がおまつりされています。全国にある春日神社の総本社であります奈良の春日大社と同じ神様で、学問と武道の神様です。
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学問と武道の神様なのですね。
「言い伝えによると鎌倉時代に奈良の春日大社からこの地に神様をお迎えしておまつりを始めたそう」との記述もあり、由緒ある神社なのですね。
とても清潔感のある神社に感じました♪
さて、春日神社を出てしばらく行くと…
善慶寺です。
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法光山善慶寺は1292年に建立。以来七百年を超えて連綿と法灯が継承されている日蓮宗の寺院です。 善慶寺が一般に知られているようになったのは1677年に起きた義民六人衆事件との深い関わりによるものです。
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ここは日蓮さんなのですね。
義民六人衆事件…。
ぁ、これ…ありましたよ。(全然知らないで写真撮ってますが)
おぉ、ちゃんと看板も撮ってる!(えらい、私)
上のページを半分くらいまで読み進めて、やっと6人の名前が出てきました。
まつられているのはこの6人のようです。何をした方々なのでしょう??
酒井権左衛門
間宮太郎兵衛
間宮新五郎
鈴木大炊之助
平林十郎左衛門
酒井善四郎
と、そのページを読み進めて…最後まで読みました。
んー泣けるお話ですね。ちょっとこのブログはここのへんでイイので、ぜひ上のリンクを読んであげてください。全文でぜひ。
(さらりと6人のお話の内容を書いておきますね。)
六人の法名は、是信、慶、賢栄、道春、宗円、椿葱。墓石の ”裏面” に刻まれています。
このあたりは、その昔武蔵野国荏原郡新井宿村とよばれ、約三百年続いた江戸時代において旗本木原氏の領地でした。しかし、湿地帯で米の収穫が少なく、村人は農耕の他に人足仕事や馬による運搬業で生計を立てていました。
時機にその運搬業の仕事も少なくなり、年貢を増やす目的の不正な検地も行われ、村人は無理な年貢取り立てに苦しみ、生活は疲幣と窮乏をたどる一方となりました。翌年の夏は六郷川が氾濫、飢餓へ…。
そんな状況に村人は年貢免除を申し出ましたが領主は一蹴。農民は借金の形に田畑や馬を手放し、ついに村全体で使える馬は数頭を残すのみとなりました。翌年にも、検地の改めを申し出ますが、領主はなんの施しもしません。
そんな中、この六人は老中へ直訴をするべく江戸へと向かいます。この時代の駕籠訴えは大罪。すぐに役人の追手がかかり、皆の想いは届くことなく江戸で捕まって斬首となってしまいます。
斬首された日、彼らと同じ村の百姓のもとへ江戸から運ぶものがあるから馬を連れて来いと達しがありました。運び出すものとは六人の亡骸。親しかった六人、苦しみを分かち合った六人が命がけで行った行為。
それを嘲笑う役人。
同士の無念を知り、張り裂けそうな気持とともに亡骸を村へ連れて帰ります。しかし、直訴は大罪。葬式や法事もとり行ってはなりません。
残された六人の家族は、見せしめのため、財産を取り上げられ、村を追われ、焼身自殺をしたものも…。
六人の遺骸は引き取り手がなく、善慶寺が禁を破り墓城に葬り供養しました。それから二年後、ある村人が自分の両親の墓という名目で六人墓をたてます。表には両親の名前、裏には六人の名前を刻み、そこに遺骨を安置しました。
(こんなお話でした。勇気ある行動に感動しました。)
さて、六人衆のお墓のわきに、熊野神社への入り口があります。
そう、お寺を通り抜けて、神社への入り口があるのです。
こんなかんじかな?
おさんぽは5月の頭でしたので、シャクヤクの花が咲きはじめるキレイなお庭を通って神社の入り口に向かう感じです。
神社へは…また急な階段…。
はい、ランの格好しているので駆け上がります(むだに。)
登り切って 振り返ると、きっと海が…みえませんね。
立派な舞台もあります。
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元享年中(1321~1323年)、紀州より富田・長田・鈴木・橋爪氏らが開墾の為、新井宿の地に移住し自らの氏神である熊野本宮・新宮・那智の三社を勧請し創建したとされる。
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このかたのページに詳しく書いてあったので拝借。
速玉男命(ハヤタマノオノミコト・日本書紀)
が、祭られているらしいですね。熊野だからかな。
日本神話…イチミリも読んだことないですよ…いつかの宿題にしておきます。
善慶寺・熊野神社をでて、もうすぐゴールです♪
闇坂。
坂とつくとちょっと登ってみたくなるのは、ローディーだからでしょうか。
軌跡が残るアプリを動かしているので、寄り道しませんww
八景坂です。写真撮るの忘れちゃった。
今の大森駅前の商店街の坂ですね。
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「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」と八勝景が刻まれています。
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ん?安藤広重…?
ははん、昔はこんな景色だったのですね。海が見えますね♪
そんな景色を見るべく、天祖神社へ…また急階段!
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御由緒:享保年間(1716~1735年)、当地の庄屋・年寄・百姓らが伊勢講を組織し、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建と伝わっている。
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こちらは、天照大御神(アマテラスオオミカミ)をまつっているそう。
神話シリーズは、合わせて宿題で。
境内から大森駅方面を眺めます。
うみ……。
昔は海岸線が近かったので、見えたと思うのですよね。
池上道から東側は下っていて、海までほぼ水田ですし。
最近こんなことを想像するすべも覚えました*ᴗ ᴗ)⁾⁾
神社から別の階段を使って降りると、そこには
「馬込文志村散策のみち」と名がついています。
はい。んと。えーっと…。
なんの解説もできません…(汗)
こちらがホームページとなっておりますので、お好きな方はどうぞ。
いろんなルートでお散歩できるらしいです。
ん。次。あと2つです。
中世道路跡発見の地
看板も読みましたが、何を言っているのやらさっぱりわかりません…。
まぁきっとビルを作ろうとしたら、昔の大きな道路の跡が見つかったよ。室町時代と奈良時代のものも出土してね。池上道と鎌倉街道は近いし、古代東海道がもしかしたらココを通っていたのかもね?
って話なんだと思う。あぁ、見たまんまで要約にもなってないけども…。
古代東海道がどこを通っていたのかは、ちゃんとはわかってないのですね。
ちなみに、一般的に知られている「現代の東海道」とは「江戸時代に制定された五街道のうちの一つとしての東海道」のことを指していて、「古代東海道」とは「律令制度の時代に“行政区画としての東海道”を通る官道としての東海道」のことを指すらしいです。
さて、出発!
時代はさかのぼり、縄文時代へ。
今回は大塚貝塚ゴールにすることにしました。
少し広めの公園なのですが、子どもたちがたくさん遊んでいます。
貝塚のレプリカがあったり、
縄文時代の生活などの看板がいくつかったっています。
パッと見、左下のモース博士が気になりますね。だれだ…。
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エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくった
******
〔豆知識〕
高校は入退学を繰り返したが、13歳から集めだした貝類の標本は学者が見に来るほど充実していた。新種のカタツムリもみつけた。31歳でボウディン大学教授に就任し、ハーバード大学の講師も兼ねていた。明治10年に来日。横浜から新橋へ行く途中の汽車の中から貝塚を発見(これが大森貝塚)。東大法理文学部の教授に就任し、本をたくさん寄贈して東大図書館の基礎を作った。日本の陶器が好きで、大隈重信が所蔵の全陶器を贈ったほどだった。収集した陶器は5000点にのぼり52歳の時にボストン美術館に売却&管理。関東大震災で焼けてしまった帝国図書館に死後12000冊の本を寄贈した。死因は脳溢血。モース博士の大森貝塚の功績のおかげで大田区とセイラム市とは、姉妹都市になっている。
(ほぅ。。。なんだか日本にたくさん貢献してくれた方だったのですね。ありがたい。)
一番奥には、立派な碑があります。
線路沿いなので、もしかしたら電車から見えるかもしれませんね。
京浜東北線に乗るときに(大森〜大井町間)、汽車から貝塚を発見したモース博士のように、貝塚の碑を探してみるのもよいかもしれません。
さて、池上道のお散歩、今日はここでおしまいです。
大井はもう少し見どころがあるのと、品川歴史館が開いたら再訪せねばなりませんね♪
第2回目の古道散歩でしたが、少しずつ昔の地図のアプリなども入れ、楽しみ方がわかってきた気がします。
今回のルートです。
池上道、沼部から大井 11.1km
古道さんぽ:池上道 pic.twitter.com/3I3bUvfOng
— まほ (@maho_s_25257) 2020年6月8日
https://tw.com/maho_s_25257/status/1269897551378956288?s=2
*******
次はどこに行こうかな〜??
古道︰池上道(沼部~大井町)その2
その1からの続きです。
光明寺は少しルートから外れるので、少し戻って古道ルートの旧六郷用水跡の緑道をだとる道へと入ります。
藤森稲荷神社ですね。
こんな感じだったかな??
というか藤森稲荷を見てから光明寺に行けばよかったのですね(笑)
藤森稲荷神社を調べてみたのですが、詳細不明です…。
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新編武蔵風土記稿の光明寺項に「稲荷社。大門前古松の傍にあり。藤森稲荷社と号す」と記載されているので、新編武蔵風土記稿が完成した1830年には、ここにあったのでしょう。
******
という記述を見つけました。
しんぺんむさしふうどきこう…??
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「44荏原群 6六郷領 鵜(ノ)木村」この辺かと思います。
ご興味ある方は国立国会図書館デジタルコレクションを読んでみてください。
(開いたけど諦めたw)
このあたりになってくると六郷用水の看板がちらほら出てきます。
公平に分流されていたらしい。ほぉ~お水の量が違うと喧嘩のもとになりそうですね。
小泉次太夫…いきなり知らん人が出てきましたが…。
家康さんのお役に立った土木専門の家系の方…なのですかね。
******
小泉 次大夫(こいずみ じだゆう、天文8年(1539年) - 元和9年12月8日(1624年1月27日))は戦国時代から江戸時代初期の旗本代官および用水奉行。名は吉次(よしつぐ)。
******
用水奉公ですって。そんな職業もあったのですね。
ウィキからつづきを…!
******
天正18年(1590年)に関東六ヶ国に転封となった徳川家康が江戸近郊の新田開発を計画した際、五万石相当の土地を預かる代官職に抜擢された。 次大夫は多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して採用され、以降稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)に移り住み用水奉行を務める。
(抜粋)
******
ここから7年後に六郷用水に着手したのですね。
家康「この辺開発したいんだよね。」
次太夫「じゃぁ、やっぱり水ですよね!」
家康「やっぱり? OK! やってみる?」
次太夫「御意。」
で、実現して、名を残すのだから、やり手だったのですね。
( '-' )!!
はい、次!
これ通りに道にあるのですが、謎なのです…。
石碑だけあって神社はなく。
御嶽神社?
ん~わからんのでパスっ!
御嶽山駅のところの御嶽神社と関係があるのかな?ないのかな??
さて、メインの目的地です。
正面の階段は96段あります。
お散歩のときは、本持さんと96段数えて登りましたが、撮影の日は一人なので(しかもランの格好してる)駆け上がりますっ。
途中小学生が競ってきて、本気で登ってしまいました。
大人の威厳を見せつけましたっっ
(๑•ㅂ•)و✧!!
まさかの本門寺で汗だく…!
(でもそんな階段トレーニングしてる人いっぱいいたわ〜ww)
上から見下ろすと、風が抜けてとっても気持ちがよかったの♪ 息を整えて境内をまわります。
ところで、池上本門寺のHPをみていたら、ちょっといい話というコーナーがあり、6月号を読んでみました。
******
この(コロナの)影響により、今までの当たり前という日常生活に変化をもたらし、皆さまも一つ一つの当たり前がいかに有難いことであったか気付かされたのではないでしょうか。「何でもないようなことが幸せだったと思う」とはある歌詞の1フレーズです。
(中略)
自分さえよければそれで良いという時ではなくなりました。一人一人が相手を思いやり、手を取り助け合い支え合い、日蓮大聖人がお示しになられた「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなし」というお言葉を心に留め、一日も早い終息を願いながら今あることへの感謝を忘れず、充実した日々を過ごして参りましょう。
(抜粋)
******
何の歌詞だろう?とおもったら、「ロード」ですかね? 高橋ジョージさん。
1993年ですって。
~♪
何でも
なんでもない夜の事 二度とは戻れない夜
~♪
ぁ、懐かしいですね。
思いやり、支えあい、今を感謝し、充実した日々を。良いお言葉です。
お坊さん、良いコラムをありがとうございます。
大堂です。
お散歩のときは、この大堂の前に、大きな木の…棒???が立っていたのですが、なくなっていました。
なにか書いてあったのですが、なんだったかな…写真撮っておけばよかったです。
前田利家室の層塔
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大田区HPより
******
ぁ、前田利家さんのではなく、寿福院さんのなのですね。
******
前田利家の正室・まつ(芳春院)の侍女として前田家に入り、文禄・慶長の役において名護屋の陣中にあった利家の身の回りの世話を務めた際にその美貌を見初められ側室となった。名護屋で懐妊し、四男・利常(後の2代藩主)を生んだ。
******
お綺麗な方だったのか~。ほぉ~うらやましいの。
やっぱり美人はお得だよね。
奥にもう一つ層塔があります。
加藤清正室の層塔
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大田区HPより
******
正応院さんね。
******
清正の側室となり、慶長6年(1601年)に虎藤(忠広)を産み、同12年(1607年)に幼い虎藤が病死した兄・忠正に代わって将軍家の人質に江戸へ上るとき、共に江戸屋敷に入ったようである
******
加藤清正さんの家臣の娘さんみたいですね。
上司のお嫁さんに自分の娘を…とか現代じゃ考えられない…!!!
五重の塔です。りっぱ!
******
徳川2代将軍となる秀忠公が15歳の時、悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまった。熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、のちに秀忠公は快方したので、そのお礼として建てられた塔。
桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、文化遺産としての価値は極めて高い。
******
しかも続きがあって、塔を建てて7年後の…
******
慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉公の命で現在地へ移築、修復された。その後、数度の修理を経て、平成9~13年、日蓮聖人立教開宗七百五十年慶讃記念事業の一つとして、全解体修理が施され、全容を一新した。
******
平成13年って最近すぎません…!?
なんだか色んな方に、とっても大事にされてきた五重塔なのですね。
中には入れなかったのですが、霊宝殿もあります。
大人300円(高校生以上)、小人200円
日曜日だったら開いているみたいです。しかも展示品は毎月入れ替えています、と書いてあります。
好きな方は、毎月通わねばですね♪
経堂です。
昭和20年4月15日の空襲の際も、五重塔・多宝塔・総門などと炎上を免れたらしいです。上の境内案内のページに記述がありました。
******
輪蔵(注釈)形式で、内部には回転する八角形の書架があり、一切経が収められていました。
(注釈)輪蔵(りんぞう) 蔵の中心に軸を設け、仏教の経典を収めた蔵ごと回転させることができるようにしたもの。
大田区HPより
******
八角形でくるくる回るっっ!!
輪蔵形式ね…お散歩のときは扉が開いていて、くるくる回るところを見ることができたのですが、撮影に来た日は時間が遅かったのかな?平日だったからかな?閉まってました。
多宝塔です。
******
池上本門寺宝塔は、日蓮宗の宗祖・日蓮の
宝塔は、上下層とも円形の平面をもつ木造の仏塔で、屋根は
内部空間を持つ木造の宝塔は全国的にも類例が少なく、宝塔形式の塔としては最大規模の
大田区HPより
******
概要って大田区のHPに書いてあるのですが、半分も理解できない…。
ん、読んで理解できる方は知識としてとどめておいてくださいね。
なんかすごくイイヤツらしいです!
私としては、見て、『立派!!!』なので、それで充分です(笑)
本行寺です。お隣さん。
日蓮さんがご臨終された間があります。
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池上家滞在中、すでに重い病にあった日蓮聖人ですが、ご入滅になられるまでの約1ヶ月間、このお部屋で多くの弟子、信者に法華経や立正安国論をご講義なされました。ご講義の際に日蓮聖人が寄りかかっていたとされる柱の一部は、今でも「ご臨終の間」に置かれ、触れていただくことができます。
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あ、これ触っちゃいました!お散歩のときに。
なんだかご利益ありそうな( *´꒳`*)◞♡
ここに行ったらぜひ奥の廊下もまわってみてください。きれいなお庭を見ることができます。
お散歩のときは入れたのですが、撮影の日は15時過ぎていたので、中に入ることはできませんでした。
ぁ、そういえばココはお散歩のときの写真がありました。お庭はこんな感じです。
ソファに座ってぼーとしているだけで、心地よい時間が過ぎます♪
日蓮さんです。
日蓮さんのわきに、日本看護婦会慰霊塔というものもありました。
看護婦って単語を久々に目にした気がします。いまは看護師さんですね。
この方が詳しく書いてくださっていました。
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昭和12年に勃発した日華事変から大東亜戦争の終結までに日本赤十字社が派遣した救護班は960班、延べ人員33,156人もの「戦時救護看護婦」を戦地に派遣し、戦地に於ける敵襲・病院船への魚雷攻撃・内地の病院勤務中の空襲・原爆による殉職救護員は1,143名、負傷者は4,689人に達したと云われている。
しかし従軍したのは日赤の看護婦だけでなく、陸軍・海軍の応召看護婦、「ひめゆり学徒隊」等女学生にも及び、その方たちの犠牲を合わせると殉職者の数は膨大な人数に上るが、正確な記録は残されていない。
(上記リンクより抜粋)
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なるほど。
いつの時代も医療従事者の方には感謝してもしきれませんね。
さて、池上本門寺を出発して池上道をルンルン走り、大森駅方面へ向かいます。
いにしへの東海道という看板?がちらほら出てくるのでわかりやすいですね。
とおもったら、道端に出てくるこういうヤツ!
何だキミは…読めないし…!
それと、途中の石屋さんのガラスに映る私の撮影日姿を覚書程度に載せておきますw
その3へ続く。
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古道︰池上道(沼部~大井町)その1
古道さんぽ:池上道 pic.twitter.com/3I3bUvfOng
— まほ (@maho_s_25257) 2020年6月8日
https://twitter.com/maho_s_25257/status/1269897551378956288?s=20
2020年5月9日(土)晴れ
追加撮影 5月27日(水)晴れ
前回は、左ルートを行きましたが、今回は右ルートです!
グリーンの方ですね。
「池上道」
お散歩をし始めたきっかけは東京古道散歩という本をお借りしたところから。
今回はこの本の P.48 池上道ルート。
ピンクの品川道のお話はこちら。
本持ちさんとお散歩をした日はあまり写真を撮らなかったので、後日ミニベロにて、しゅ~っと撮影に行ってきました。ご近所ですので。
見慣れた丸子橋をスタートします。
自転車でお出かけするときの待ち合わせ場所としてよく使うところです。
お散歩の日は、大森駅スタート→多摩川ゴールにしたので、自転車ルートはおさんぽした道を逆走。軌跡が出るアプリを動かしているので、間違えないように気を付けながらww
丸子橋からタマサイを下流に方面に向かう時に、車道からタマサイに入ったすぐのところにある看板です。
たぶん何十回も通っているけれど、今まで目にも入っていませんでした。
丸子橋が昭和9年にできるまでは、この場所で「まるこの渡し船」があって船で往来していたのですね。
さて、池上道をたどっていきます。
最初のチェックポイントは密蔵院。
真言宗のお寺さんなのですね。日蓮さん関連が多いので、前回、日蓮宗については少し学びましたが、真言宗…?とおもったら、密蔵院のHPに解説が載っていました。
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真言宗は仏教の中でも密教といわれる宗派です。
仏教は今から2500年ほど前にお釈迦様が悟りを開かれ仏陀となられたことを出発点としています。 インドで生まれた仏教は、中央アジアを通って、中国、モンゴルなどに伝わりその後、 朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来しました。弘法大師によって開かれた真言宗は、 仏教の中でも特に密教であるといわれます。
密教とは「仏さまの秘密の教えを明らかにした教え」という意味です。 そしてこの教えが弘法大師により日本に伝えられ、真言宗となるのです。
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(あー、密教って、秘密の宗教なんじゃなくて、秘密を説いた宗教ってことなのですね。そろそろ仏教についてお勉強しなきゃいけないんじゃないかと思ってますデス…。)
智山派の総本山は、京都東山七条にある智積院なんですって。
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智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。
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(まぢか!京都以外は、全部行ったことある!)
玉川八十八か所?
あ、なるほど。多摩川周辺の真言宗のお寺ばかりを88か所お参りするのですね。
密蔵院は56番目らしい~。
とりあえず、入り口に看板が(たくさん)あって、写真撮るだけとってきたので、読んでいきたいと思います。
(最近この手の看板は「あとで読むシリーズ」と呼んでいて、現地ではほとんど読まず…理解できないし…写メるだけ写メって、ブログ書くときに調べながら読んでますw)
これについては、HPに画像付きで紹介がありました。
お時間れば公式さんをのぞいてみてください。モモタロウなどの昔話に出てきそうな感じのキレイな色が施された立像が見られます。
庚申供養塔
上記のリンクと同じページに説明があります。品川道の洗足池の手前でも庚申塔って出てきましたが…庚申塔…とは??
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庚申様の信仰は古く推古天皇の御代、聖徳太子が佛の所説に基づき「大青面金剛明王垂化記」を記述されたことにはじまります。当院ご本尊の大青面金剛尊は、昔から多くの御信者により「沼部の庚申さま」として近郷近在に知れわたっていました
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庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。
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(なるほど…道端に庚申塔があったら古い道だったり過去の村の堺目だったり道標だったりするのですね。)
ご本尊は、大日如来坐像。小さめ。
弘法大師坐像。
これも密蔵院のHPに記載ありましたね。
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本像は木造寄木造り、彩色像高40㎝、像底の墨書銘によれば、寛永7年(1630)に再興され、宝暦7年(1757)に修復されました。
※00 年に再修復
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弘法大師さんね。いわゆる空海さんですよね。あの、高野山の。一度行ってみたいんだけどな、高野山。
…ん~私の乏しい知識はこのレベル(笑)
Googleせんせ~
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空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。
日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
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〔豆知識〕
香川県生まれ。高知県の”ミクロド”という洞窟で修行していた時に明星が口に飛び込んできて悟りを開く。この洞窟で目にしていたものが空と海だけだったので「空海」と名乗るようになった。31歳で長安に留学。43歳で嵯峨天皇から高野山を賜る。一流の文人でもあったが土木技術や薬学も学んでいた。全国でたくさんの温泉を発見した? 四国八十八か所参りは空海さんゆかりの地を巡る道。死因は病死(?)
そういえば、弘法と入っていることわざもありますね。
「弘法も筆の誤り」
空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになったが、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っているが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
「弘法筆を選ばず」
文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないという意味のことわざ。ただし、性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった、という、全く逆の意味の言及がある。良い道具の選択が重要であることも世には多く、「弘法筆を選ぶ」のように全く逆に転じた言い回しもある。
なるほど、ことわざも掘ってみると面白いですね。
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高野山では、空海が弘仁7(816)年に嵯峨天皇から高野山を賜り、真言密教の道場を開いた「開創」と、空海が承和2(835)年に入定(永遠の瞑想)したことに合わせた「御遠忌」の2つの大法会をそれぞれ50年ごとに開いている。
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え?50年ごとに御遠忌?
と思って調べてみたら、2015年に開創1200年だったのですね。
ってことは次は2065年?生きてるかな~(笑)
私、元気なので、生きてる気がする(*ˊᗜˋ*)w𐤔
さて、密蔵院だけで盛りだくさんになってしまいましたが、先に進みます!
六郷用水の跡をさかのぼります。
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六郷用水
多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。 延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。一部区間(世田谷区岡本〜大田区田園調布)は丸子川として残っている。
(抜粋)
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あ、丸子川は六郷用水の一部なのですね。等々力渓谷と交差するところなどありますもんね。なるほど。我が家、丸子川も近いのですが、お散歩道としてはとても良いことろで子供たちが虫取りして遊んでいたりする光景を見かけます。
また庚申塔が出てきましたね。
さっき学んだのでばっちりです♪
地域の人々のくらしの無事を祈る風習。
ほー。いいですね。
ちょっと、鵜の木松山公園に寄り道します。
ここには、横穴墓群があります。公園の上までいくと小高い丘の上にでます。
風が抜け、武蔵小杉のビル群などが見えて眺めのいい公園となっています。
鵜の木一丁目横穴墓群について
多摩川流域の横穴墓は、古墳時代(6世紀末)から奈良時代(8世紀前半)にかけて台地斜面に横穴を掘って造られた地域の有力者のお墓です。大田区周辺の台地斜面では、鵜の木大地をはじめとして、いままでにおよぞ260基の横穴墓が発見されています。
(一部抜粋)
(ライトアップされていてびっくりしました( '-' )!
外が明るいので覗かないとライトがついていることすらわからない感じです。)
260基もこんな感じのがあったら、穴だらけですよねww
さて、次の目的地に向かいます。
光明寺です。環八沿いに突如として大きな白い壁が出てくるのですが、そこが光明寺の敷地となります。
古くは多摩川が通っていたらしく、それが池となって残っているとのことですが、境内から見えません。
青いマルが江戸時代ごろの池で、紫のマルが今の池ですね。
さらに古く、古多摩川はこんなラインだったとか。
たぶん、この奥くらいが池~??
見えない…(¯∇¯٥)
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天平年間(729年~749年)、行基によって開山された。その後弘仁年間(810年~824年)に弘法大師空海によって再興されて真言宗の寺院となり、「関東高野山」の異名をとった[1]。
ところが寛喜年間(1229年~1232年)になり浄土宗に転宗した。当寺の行観は、弘法大師の寺が消滅することを惜しみ、別に一寺(宝幢院)を設けて隠棲し、二世以降を真言宗の僧侶に譲ることにしたという。そういう経緯から、宝幢院と同じ院号・寺号「宝幢院光明寺」を持ち、当寺は「光明寺」を、もう片方の寺は「宝幢院」を通称とすることになった[1]。
1239年(延応元年)には、浄土宗西山派から浄土宗鎮西派に転属している
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ほぅ~なんか謎多きお寺。
光明寺についてあまり有力なネットのページは見つけられなかったのですが、下丸子周辺の昭和初期と現在の様子を写真で見られるページがあったのでリンクをはっておきますね。
http://touyoko-ensen.com/syasen/ohtaku/ht-txt/ohtaku09.html
光明寺には古墳があります。
円墳で、直径23m。高さ3m。本堂の右手のスロープを上がった先の墓所にあり、頂上に木が植えられています。
この木に見とれていると、地面から飛び出ている(これなに??)突起に足を引っかけます( ˘•ω•˘ )
お散歩と撮影と2回行って、2回ともこけそうになりました…!
次は…気を付けよう(笑)
さて、池上本門寺方面へ向かいます!
その2へ続く
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