古道︰池上道(沼部~大井町)その3
その2からの続きです。
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春日神社の御本殿には、天児屋根神(あめのこやねのかみ)・建御賀豆智神(たけみかづちのかみ)・伊波比主神(いわいぬしのかみ)という三柱の神様がおまつりされています。全国にある春日神社の総本社であります奈良の春日大社と同じ神様で、学問と武道の神様です。
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学問と武道の神様なのですね。
「言い伝えによると鎌倉時代に奈良の春日大社からこの地に神様をお迎えしておまつりを始めたそう」との記述もあり、由緒ある神社なのですね。
とても清潔感のある神社に感じました♪
さて、春日神社を出てしばらく行くと…
善慶寺です。
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法光山善慶寺は1292年に建立。以来七百年を超えて連綿と法灯が継承されている日蓮宗の寺院です。 善慶寺が一般に知られているようになったのは1677年に起きた義民六人衆事件との深い関わりによるものです。
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ここは日蓮さんなのですね。
義民六人衆事件…。
ぁ、これ…ありましたよ。(全然知らないで写真撮ってますが)
おぉ、ちゃんと看板も撮ってる!(えらい、私)
上のページを半分くらいまで読み進めて、やっと6人の名前が出てきました。
まつられているのはこの6人のようです。何をした方々なのでしょう??
酒井権左衛門
間宮太郎兵衛
間宮新五郎
鈴木大炊之助
平林十郎左衛門
酒井善四郎
と、そのページを読み進めて…最後まで読みました。
んー泣けるお話ですね。ちょっとこのブログはここのへんでイイので、ぜひ上のリンクを読んであげてください。全文でぜひ。
(さらりと6人のお話の内容を書いておきますね。)
六人の法名は、是信、慶、賢栄、道春、宗円、椿葱。墓石の ”裏面” に刻まれています。
このあたりは、その昔武蔵野国荏原郡新井宿村とよばれ、約三百年続いた江戸時代において旗本木原氏の領地でした。しかし、湿地帯で米の収穫が少なく、村人は農耕の他に人足仕事や馬による運搬業で生計を立てていました。
時機にその運搬業の仕事も少なくなり、年貢を増やす目的の不正な検地も行われ、村人は無理な年貢取り立てに苦しみ、生活は疲幣と窮乏をたどる一方となりました。翌年の夏は六郷川が氾濫、飢餓へ…。
そんな状況に村人は年貢免除を申し出ましたが領主は一蹴。農民は借金の形に田畑や馬を手放し、ついに村全体で使える馬は数頭を残すのみとなりました。翌年にも、検地の改めを申し出ますが、領主はなんの施しもしません。
そんな中、この六人は老中へ直訴をするべく江戸へと向かいます。この時代の駕籠訴えは大罪。すぐに役人の追手がかかり、皆の想いは届くことなく江戸で捕まって斬首となってしまいます。
斬首された日、彼らと同じ村の百姓のもとへ江戸から運ぶものがあるから馬を連れて来いと達しがありました。運び出すものとは六人の亡骸。親しかった六人、苦しみを分かち合った六人が命がけで行った行為。
それを嘲笑う役人。
同士の無念を知り、張り裂けそうな気持とともに亡骸を村へ連れて帰ります。しかし、直訴は大罪。葬式や法事もとり行ってはなりません。
残された六人の家族は、見せしめのため、財産を取り上げられ、村を追われ、焼身自殺をしたものも…。
六人の遺骸は引き取り手がなく、善慶寺が禁を破り墓城に葬り供養しました。それから二年後、ある村人が自分の両親の墓という名目で六人墓をたてます。表には両親の名前、裏には六人の名前を刻み、そこに遺骨を安置しました。
(こんなお話でした。勇気ある行動に感動しました。)
さて、六人衆のお墓のわきに、熊野神社への入り口があります。
そう、お寺を通り抜けて、神社への入り口があるのです。
こんなかんじかな?
おさんぽは5月の頭でしたので、シャクヤクの花が咲きはじめるキレイなお庭を通って神社の入り口に向かう感じです。
神社へは…また急な階段…。
はい、ランの格好しているので駆け上がります(むだに。)
登り切って 振り返ると、きっと海が…みえませんね。
立派な舞台もあります。
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元享年中(1321~1323年)、紀州より富田・長田・鈴木・橋爪氏らが開墾の為、新井宿の地に移住し自らの氏神である熊野本宮・新宮・那智の三社を勧請し創建したとされる。
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このかたのページに詳しく書いてあったので拝借。
速玉男命(ハヤタマノオノミコト・日本書紀)
が、祭られているらしいですね。熊野だからかな。
日本神話…イチミリも読んだことないですよ…いつかの宿題にしておきます。
善慶寺・熊野神社をでて、もうすぐゴールです♪
闇坂。
坂とつくとちょっと登ってみたくなるのは、ローディーだからでしょうか。
軌跡が残るアプリを動かしているので、寄り道しませんww
八景坂です。写真撮るの忘れちゃった。
今の大森駅前の商店街の坂ですね。
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「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」と八勝景が刻まれています。
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ん?安藤広重…?
ははん、昔はこんな景色だったのですね。海が見えますね♪
そんな景色を見るべく、天祖神社へ…また急階段!
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御由緒:享保年間(1716~1735年)、当地の庄屋・年寄・百姓らが伊勢講を組織し、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建と伝わっている。
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こちらは、天照大御神(アマテラスオオミカミ)をまつっているそう。
神話シリーズは、合わせて宿題で。
境内から大森駅方面を眺めます。
うみ……。
昔は海岸線が近かったので、見えたと思うのですよね。
池上道から東側は下っていて、海までほぼ水田ですし。
最近こんなことを想像するすべも覚えました*ᴗ ᴗ)⁾⁾
神社から別の階段を使って降りると、そこには
「馬込文志村散策のみち」と名がついています。
はい。んと。えーっと…。
なんの解説もできません…(汗)
こちらがホームページとなっておりますので、お好きな方はどうぞ。
いろんなルートでお散歩できるらしいです。
ん。次。あと2つです。
中世道路跡発見の地
看板も読みましたが、何を言っているのやらさっぱりわかりません…。
まぁきっとビルを作ろうとしたら、昔の大きな道路の跡が見つかったよ。室町時代と奈良時代のものも出土してね。池上道と鎌倉街道は近いし、古代東海道がもしかしたらココを通っていたのかもね?
って話なんだと思う。あぁ、見たまんまで要約にもなってないけども…。
古代東海道がどこを通っていたのかは、ちゃんとはわかってないのですね。
ちなみに、一般的に知られている「現代の東海道」とは「江戸時代に制定された五街道のうちの一つとしての東海道」のことを指していて、「古代東海道」とは「律令制度の時代に“行政区画としての東海道”を通る官道としての東海道」のことを指すらしいです。
さて、出発!
時代はさかのぼり、縄文時代へ。
今回は大塚貝塚ゴールにすることにしました。
少し広めの公園なのですが、子どもたちがたくさん遊んでいます。
貝塚のレプリカがあったり、
縄文時代の生活などの看板がいくつかったっています。
パッと見、左下のモース博士が気になりますね。だれだ…。
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エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくった
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〔豆知識〕
高校は入退学を繰り返したが、13歳から集めだした貝類の標本は学者が見に来るほど充実していた。新種のカタツムリもみつけた。31歳でボウディン大学教授に就任し、ハーバード大学の講師も兼ねていた。明治10年に来日。横浜から新橋へ行く途中の汽車の中から貝塚を発見(これが大森貝塚)。東大法理文学部の教授に就任し、本をたくさん寄贈して東大図書館の基礎を作った。日本の陶器が好きで、大隈重信が所蔵の全陶器を贈ったほどだった。収集した陶器は5000点にのぼり52歳の時にボストン美術館に売却&管理。関東大震災で焼けてしまった帝国図書館に死後12000冊の本を寄贈した。死因は脳溢血。モース博士の大森貝塚の功績のおかげで大田区とセイラム市とは、姉妹都市になっている。
(ほぅ。。。なんだか日本にたくさん貢献してくれた方だったのですね。ありがたい。)
一番奥には、立派な碑があります。
線路沿いなので、もしかしたら電車から見えるかもしれませんね。
京浜東北線に乗るときに(大森〜大井町間)、汽車から貝塚を発見したモース博士のように、貝塚の碑を探してみるのもよいかもしれません。
さて、池上道のお散歩、今日はここでおしまいです。
大井はもう少し見どころがあるのと、品川歴史館が開いたら再訪せねばなりませんね♪
第2回目の古道散歩でしたが、少しずつ昔の地図のアプリなども入れ、楽しみ方がわかってきた気がします。
今回のルートです。
池上道、沼部から大井 11.1km
古道さんぽ:池上道 pic.twitter.com/3I3bUvfOng
— まほ (@maho_s_25257) 2020年6月8日
https://tw.com/maho_s_25257/status/1269897551378956288?s=2
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次はどこに行こうかな〜??